UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第二回 アドラー心理学の概要と基礎理解

 

 

アドラー心理学って?

アドラー心理学アドラーしんりがく)、個人心理学(こじんしんりがく、individual psychology)とは、アルフレッド・アドラーAlfred Adler)が創始し、後継者たちが発展させてきた心理学の体系である。(『Wikipedia』より引用)

 

アドラー心理学」とひとことにいっても、その体系は幅広く、このブログ1つで説明できるほど容易ではない。また、ブログ管理人自体、この心理学について熱心な勉学に励んだわけではなく、アドラー心理学を一般流布させたベストセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』、その他関連の本やWebページを読んだだけであることは承知の上で読んでいただきたい。

 

ここでは、本UNDERTALE考察で重要となってくるものに的をしぼり、アドラー心理学で提唱される「目的論」「ライフスタイル」「人間の悩みとはすなわち対人関係の悩みである~劣等感・劣等コンプレックス~」「他者は味方という認識」「課題の分離」「問題行動の5段階」「共同体感覚」についての概要を簡単に説明しようと思う。

 

この記事では、UNDERTALE考察に必要な概略のみを説明することになる。

もしアドラー心理学をもっと詳しく知りたい、というのであれば、各自詳細を検索されたし。

diamond.jp

yuik.net

 

 

 

フロイト的「原因論」とアドラー的「目的論」

"アドラー心理学では、個人の悩みは、過去に起因するのではなく、未来をどうしたいという目的に起因して行動を選択している、と捉える。"(『Wikipedia』より引用)

 

アドラー心理学によれば、人間には「過去のトラウマ」など存在しない、というのである。人間が起こす行動はすなわち、その行動によって達成されるべき「目的」のために為される、と解釈する。

 

(例)【原因論】私は過去にいじめられたからひきこもりになった。

(例)【目的論】ひきこもることで他者の関心を引きたいためにひきこもりになっている。

 

ここで過去に「いじめられた」かどうかは、「ひきこもりになった」こととは関係がない、とアドラーは提唱するのだという。なぜといえば、「いじめられた」からといって「ひきこもりになる」とは限らないからである。「ひきこもりになった」のは、その人が「ひきこもりになる」ことで、何か得する理由・目的があるはずだととらえる――それが、アドラー心理学的「目的論」の考え方である。

 

ひきこもりになる目的は、その人によってそれぞれだろう。「親や教師の関心をひきたい(ひきこもっていることにより、誰かが自分を特別視してくれる)」「人付き合いが面倒くさいので、なるべく外に出たくない」……それらは「いじめられたかどうか」が問題なのではない。いじめられたからといって、ひきこもりにならない人は、ならないのである。

 

ここで、その目的を「人付き合いが面倒くさい」と結論づけた場合、その印象自体は「いじめられた」から受けることになるかもしれない(いじめられるような人間関係が面倒くさい、と考えるきっかけになるかもしれない)。ただ、それは「ひきこもり」の原因と考える必要はないのである。(本当に「いじめ」が原因なのなら、そのいじめがなくなれば、その人はひきこもりを二度と起こさないことになる。しかし、ひきこもりの実態の中には、当該学校卒業ないしは転学、退学後、大人になってもひきこもりが続くことがある。)

 

 

さて、この「原因論」から「目的論」への認知の意向は、良いことを生む。

それは、「過去のトラウマ(原因)は変えられないが、今の目的はよりよい方に変えられる」ということである。

たとえ過去にいじめられたとしても、「親の興味を引きたかっただけかもしれない」と自分の目的を見直すことによって、「ひきこもりによって親の興味を引く必要はない=ありのままの自分でいても、自分はみんなから存在を認められている」と思えれば、ひきこもりになる必要はなくなる。

すなわち、「目的論」でものをとらえることができれば、

人は「変わりたい自分」に変わることができる! のである。

 

そしてアドラー心理学は、自分がよりよく変わる「勇気」を大きく主張する。

 

 

性格は変えられない?――性格ではなく「ライフスタイル」を変える――

あなたは自分の性格に満足しているだろうか。もしも変えられるものならもっと素晴らしい性格になりたい、あの人みたいに陽気だったらもっと人に話しかけられるのに! あの人みたいに自信満々だったら緊張しなくてすむのに! ……そんなことを考えたことはないだろうか。そして「私は人見知り(性格)だから人とうまく話せないし、すぐ緊張する……」なんてことを考えるのではないだろうか。そして、ひいては「性格は変えられないから、あの人みたいにはなれない」という結論に流れていくのではないだろうか。

 

ここまで読んでお気づきかと思うが、「性格」というものは「原因論」と結びつきやすい言葉なのである。

 

上記の場合、「人とうまく話せない」ことの言い訳(原因)が「性格」のせいだということになる。しかし、アドラー的「目的論」でとらえるならば、その人は「人と交流して傷つくことから逃れるために」人見知りという性格を装っている、ということになる。

 

アドラー心理学的見地からすると、一人ひとりに性格の差はないのだという。

性格の差というのはすなわち「行動の差」であって、その人が日頃から何を行うかによって定められるものである というのである。

 

アドラーはそのことを「ライフスタイル」と呼んだ。一人ひとりに性格の違いというものはなく、その人がどのような行動をとるか――すなわち、どんな「ライフスタイル」を選択するか、が問題であるのだ、と。

そして、ライフスタイルは、行動の集大成であるから、変えることができる! というのである。

 

自分を「人見知り」だと思っている人が、「勇気」を持って、毎日人に話しかけてみたとしよう。傷つくことがあるかもしれないけれど、それを恐れずに毎日人に話しかけてみたとしよう。たとえもしその人が吃音症で、話すのが苦手だっとしても、人に話しかける努力を毎日怠らなかったとしよう。――その人のことを、周りの人は「人見知り」だと思うだろうか?

 

おそらく、思わないはずである。「人見知り」と思っている人は、「人に話しかけない」というライフスタイルを自分から選び取っているということになるのである。

 

 

 

人間の悩みはすべて対人関係の悩み――「劣等感」と「劣等コンプレックス」――

アドラー心理学によれば、人間の悩みはすべて「対人関係の悩み」なのだという。おおよそ、自分が悩みだと思うことをあげてみてほしい。金銭の悩み?容姿の悩み?性格の悩み?等々……。次に、自分がこの広い宇宙にたった一人しか存在していないところを想像してみてほしい。さて、先ほどあげてみた「悩み」は、その世界(広い宇宙に自分ひとりしかいない世界)でも継続するだろうか?

 

「通貨」は、取引する相手がいなければ意味をなさない。「容姿」は、それを見てくれる相手、それを比較する相手がいなければ意味をなさない。「性格」も、どれだけ暴力的で奔放であろうが、それを咎める者は誰ひとりいない。――そう考えると、人間の悩みは大なり小なりすべて「人間関係の悩み」なのである。

 

さて、自分以外にも人間がいると、どのようなことが起こるかといえば、人は「劣等感」を覚えるのである。

 

「私は(あの人より)身長が低い」「私は(あの人より)お金を持っていない」「私は(あの人より)才能がない」「私は(あの人より)好かれない」……これらを「劣等感」と呼ぶことについては、何も異論はないだろう。

 

アドラー心理学では「劣等感」は持つべきものとして提唱される。「容姿」に劣等感を抱く人は、少しでも綺麗に見られるよう、服装や化粧に気を遣うだろう。「お金」に劣等感を抱く人は、仕事における向上心に繋がるかもしれない。「才能」に劣等感を抱く人は、一生懸命努力しようとする心に繋がるだろう。「好かれない」ことに引っかかっている人は、自分の性格をよくしようと努力できるかもしれない。つまり、自分をよりよく変えていく材料になるのである。

 

いやいや、「劣等感」はそんな前向きなものではない――と思う人は、「劣等感」ではなく「劣等コンプレックス」を抱いている、ということになる。「劣等コンプレックス」は、アドラー心理学で強く否定されるものである。

 

「劣等コンプレックス」とは、上記であげた「劣等感」について、「そのせいで自分はうまくいかない」と考えることである。

 

【例】私はブサイクだからモテない。

【例】私は性格が悪いから誰からも好かれない。

【例】私は才能がないから誰からも認めてもらえない。

 

自分の劣等性を理由に、自分を変える勇気を持たないこと。それが「劣等コンプレックス」なのである。

 

劣等コンプレックスは、自分が変われないことに対して都合の良い言い訳(=原因)を取ってきているだけである。

「モテない」「好かれない」「認められない」ことを、「ブサイク」「性格」「才能」のせいにしているだけなのである。

「モテる」「好かれる」「認められる」ための努力が面倒くさいために、適切な原因を引き出している状態ともいえる。

 

また、劣等コンプレックスが発展したものとして「優越コンプレックス」も存在する。

「~だからモテない、好かれない、認められない」……などといった状況のままでいるのは辛い。だからといってそのための努力ができない人は、今度はあたかも自分が優れているかのように見せかけるのだという。

 

「権威づけ」という言葉で表されるが、分かりやすくいえば、自分と身近な誰かの出世話を自分のことのように自慢したり、過剰にブランド物を身につけることによって、自分は優れていて、偉い、特別である――と見せかけるような状態である。

 

 

人は誰しも劣等感を抱く存在である。しかし、それをコンプレックスとしてしまっては、前に進むことができない。

 

前に進みたければ、その劣等感を抱えた自分を「これからどうしていくか」が大切なのである。そして、それが「生きる目的を変えること」、すなわち「ライフスタイルを変えること」なのである。

 

そしてライフスタイルを変えることにはどうしても「勇気」がつきまとう。何かを変えること、努力をすることは人にとって非常に「勇気」のいることだからである。

 

これまでの見出しの中でも何度か「勇気」という言葉を出してきたことにお気づきだろうか? アドラー心理学は、「勇気の心理学」といってしかるべき心理学なのである。

 

 

 

他者は「敵」ではなく「味方」であるという認知

アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩み」と結論付ける。上述したように、人間は誰しも劣等感にさいなまれる生き物だからである。

しかし、同じく上述したとおり、劣等感とは健全な心の動きでもある。それがどうして、劣等コンプレックスにつながってしまったり、「嫉妬」や「羨望」が介入したりしてしまうのか。

 

それは、我々が「他者は敵だ」という認識に立っているからである。

 

信賞必罰、競争社会の中で、人は「敗北者になりたくない」という考えを起こす。そうなってしまうと、周りの人はすべて自分を陥れるかもしれない「敵」となり得るのである。劣等感によって人を嫉妬し、その相手が称賛をもらうことを心から喜べないのはなぜか? その相手が、自分の「敵」となってしまっているからである。

本来ならば自分がもらうはずだった称賛を、栄光を横から盗み去っていく存在――他者がそのような存在になってしまっているのならば、それは他者を「敵」とみなしており、競争原理に従って生きていることなのである

 

しかし、アドラー心理学では「健全な劣等感(=優越性の追求)」は、競争原理のような「他人を蹴倒して、人を押しのけて上にのしあがるような態度」と分類しない。

 

哲人 健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

青年 しかし……。

哲人 いいですか、われわれは誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

われわれは、すべて「同じではないけれど対等」なのであり、人々はみな、同じ地平を、それぞれ自分が進むべき方向に歩いていく「仲間」である――そうとらえると、「嫉妬」や「羨望」などもはや必要なくなる。

すなわち、嫌な劣等感ではなく、「健全な劣等感」を持ち、他者の幸せを心から祝福できる、というのである。そして、仲間のために「貢献」したい健全な気持ちがわき、後述する「共同体感覚」に繋がっていく。

 

 

 

他人の人生を生きてはならない――「課題の分離」――

さて、何度も述べるがアドラー心理学によれば「人間の悩みはすべて対人関係の悩み」である。逆に言えば、対人関係の悩みが解決されれば、人間は悩みなく生きていけることになる。それでは、どうしたら対人関係の悩みはなくなる(あるいは、軽くなる)のか?

その鍵は、他人の評価に惑わされず(=他人の期待を満たそうとせずに=他人の人生を生きずに)、自分の人生を生きることにある。

 

他人が自分を否定しようが、自分のことを嫌いになろうが、あるいは他人が自分をとても褒めようが、自分は自分として、自分らしく生きていく。自分らしく生きている「私」が、そのままで存在を認められていると実感できれば、人は幸せなのではなかろうか?

 

そのために、アドラー心理学では「課題は分離せよ」と唱える。

 

「私がする行動」「私が変えられること」であり、「私の課題」であるが、

私の行動によって「相手がどう思うか」「相手の課題」であり、「私にはどうすることもできないこと」 だというのだ。

 

そう考えることによって、人は自由にふるまうことができる。「相手がどう思うか」を「どうすることもできない」のならば、それは考えるだけ無駄なことなのである。

自分が自分らしく生きている。その姿を見て「好き」と思う人間もいれば、「嫌い」と感じる人間もいる。そのどちらも否定する必要はない。「好き」な人に嫌われようとする必要もなければ、「嫌い」と感じる人に忠誠を誓い、自分の行動をその人に合わせる(=好かれようとする)必要もない。

自由にふるまうとは、他者の期待を満たさず、自分の人生を生きるということに繋がる。

 

「課題の分離」ができると、人は「嫌われる勇気」を手に入れることができる。「嫌われる勇気」があれば、人は自由に生きることができるのである。

 

たとえば、満員電車の中、老人を見つけたとしよう。「私」はその人に席をゆずってあげたいと考える。けれどもし、席をゆずったとしたら……? 「自分はそんなに老けて見えるのか」と怒られる可能性もある。

しかし、もし「課題の分離」ができているのならば、「自分の良心の声」にしたがって、自由に行動することができる。

もし相手が自分のことを怒っても、「私が起こした行動によって相手がどう思うのか」は「相手の課題」であるのだから、相手の怒りは「相手の課題」として、自分が傷つく必要はないのである。

 

それでは、何をしてもいいことにならないか?「何でも自由に(=わがままに)生きていればいいのではないか?」というと、それも違う。人間の悩みは対人関係の悩みであるならばすなわち、人間の悦びもまた対人関係の悦びなのである。

 

後述の「共同体感覚」にて説明するが、アドラー心理学では「課題の分離」をしながら、人は「他者貢献(=人のためになること)」をしていくことで、「自己受容(=自分を社会のなかに存在するものとして自分自身で認めていけること)」ができると考えている。そうして、社会の中に自分の存在が認められるとき、すなわち、「ここにいてもいいんだ」と心から実感できるとき、人間は幸せなのだ、と考えるのである。

 

 

 

問題行動の五段階

かのアリストテレス「人間はポリス的動物である」と言ったように、人間社会ではどうしても他の人間と関わらずに生きていくことができない。だから、人はその生存欲求として、「他者と繋がっていたい」と考えてしまう。

 

その考え自体は間違いではない。前述したとおり、人間は社会の中で生きるからこそ幸福を得られる。しかし、「他者と繋がりたい」気持ちが「他者に認められたい」という形で顔を出すと、人間は問題行動を起こしていく。

 

「他者と繋がる」もっとも簡単で分かりやすい状況が「人に認められること(承認されること)」である。ポリス的動物である人間は、誰しもが「特別な『私』」を他人に認めてもらいたいと考えるようになる。その結果、「承認欲求」が生まれるのである。

 

しかし、アドラー心理学はその姿勢を否定する。なぜならば、他人に認めてもらう人生というのは、自分の人生を歩んでいないということだからである。

 

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

アドラー心理学は、「承認欲求」を否定する。すなわち、「褒める」ことそのものを否定する。「褒められた」人間は、「他人の評価」を求めることになる。「他人の評価」のために行動する人間は、自分の人生を生きていないことになるからである。さらに言えば、「褒める」という行動は、人を上からの評価に晒すことであり、対等な人間関係からの行いではない。この考え方は「競争原理」すなわち「他者は敵である」という思想に繋がる考え方なのである。

 

アドラー心理学は、対人関係の悩みをなくすための方法として、「特別でない『私』が誰からも存在を認められていると自分自身で実感できること(=他者の承認なしで、独り立ちできること=自立)」を目指していく。それに対して、「特別な『私』」を助長する「承認欲求」、それを満たす「褒める」行為を否定した。

 

人間が、対人関係に悩まされずに生きるためには、「称賛を求めてはならない」のである。アドラー心理学では、「称賛を求めること」は、問題行動の第一段階として取り上げられる。そして、アドラー心理学によれば、問題行動は5段階存在するという。それぞれを簡単に見ていく。

 

問題行動の第一段階:称賛の要求

他者と繋がりたい人間が最初に行う行為が、「褒められようと努力する」ことである。この状態だけ見れば、ひどく健全な状態に見えるかもしれない。しかし、この行いは「褒められたい」ために行動を起こしている段階であり、もし誰からも褒めてもらえないとしたら、その人間は努力ができないという段階にある。自分の人生を他人の評価にゆだねている、問題行動の一番の入り口なのである。

その証拠に、もし称賛を得られなくなったら人の行動はいわゆる「悪い方向」に向かう。

 

問題行動の第二段階:注目喚起

上記にて、人はその社会性からして「他者と繋がっていたい」と考えると述べた。そのために誰でも特別な『私』であろうとするのである。褒められようとするのも、特別な『私』として扱ってほしい一つの段階なのである。

しかし、もし褒められなかったら――それでも「他者と繋がっていたい」人間は、「なんでもいいから目立ってやろう」と考える。こどもが「いたずら」によって親から注目されることを望んだり、授業中に騒いでみせるような例があげられる。

 

問題行動の第三段階:権力争い

他者に対し、反抗し挑発し、権力争いを申し込む。それに「勝つ」ことで自分を認めてもらおうとする段階である。

親や教師に反抗してみたり、あるいはその指示を無視したりわざと失敗して怒られるようなことをする段階である。

 

問題行動の第四段階:復讐

権力争いに敗れたり、相手にしてもらえなかった人は、その相手に対して「憎悪」を投げかけるようになる。

ありとあらゆる手段で相手へ嫌がらせをし、「いっそ自分のことを憎んでくれ」というアピールをする。

 

上記の通り、人はどうしても「他者と繋がっていたい」生き物なのである。しかし、その他者から、どうあがいても存在が認められない時、ひとは「憎悪」の感情でもいいから人と繋がっていたい、と考えるのである。

相手にされない(自分の存在が認められない)よりは、相手から憎み、恨まれるほうがマシだというのである。

ストーカーや嫌がらせ行為なども、典型的な「愛の復讐」にあたるという。

 

しかし、もしそれすらも相手にされなかったら――。すなわち、「憎悪」という最下層の感情でも「他者と繋がる」ことが出来なかった人間はどうなってしまうのか

「絶望」してしまうのである。

 

絶望した人間がとる、第五段階の問題行動とは――。

 

問題行動の第五段階:無能の証明

自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

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自分が何もできないと証明することだ、というのである。

 

さて、このUNDERTALE考察においては、プレイヤーが操作するニンゲンを、この「無能の証明」と位置付けたいと考えている。キャラが「復讐」の段階かといえばあやしいところではあるが、そこに関する考察も次回以降で詳述できればと考えている。

 

アドラー心理学では、人間がこのような段階に至らないために、「褒めること」(そして「叱ること」)を否定する。また、「褒めること」は必ず「褒められたい」人たちの争いに繋がり、競争原理(=他者は「敵」という認知)に繋がっていく。

 

それでは、「褒められる」というわかりやすい「承認」以外で他者と繋がる方法とは、一体何なのか?

それこそが「他者を信頼し、他者に関心を寄せることで、他者に貢献をする」、その結果「自分はここにいていいんだ」と思えること――すなわち、「共同体感覚」である。

 

 

共同体感覚

本UNDERTALE考察は「アズリエルにとりこまれたときのモンスターたちは共同体感覚を味わっている」というところに終結させたいため、非常に重要な観点となってくる部分であるが、この感覚は説明が難しいので(アドラーの言う「共同体」が包括する世界が広すぎて、筆者も理解できている感覚がない)、引用や参考によって簡単にまとめたいと思う。

 

もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

(中略)

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

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アドラーは、人は「共同体感覚」に至るために、「自己への執着(self interest)」から「他者への関心(social interest)」に切り替えていく必要があるのだという。

 

アドラー心理学では、「私は私らしく自由に生きること」を推奨するが、同時に「私は世界の中心にいるわけではない、と説く。

「わたし」は人生の主人公でありながらまた、共同体の一員であり、全体の一部である。

 

人間の悦びが対人関係の悦びであるならば、人間は「所属感」を持てたとき(=「ここにいていいんだ」と思えたとき)に、幸福を感じられるのである。そのために、人は他者の期待を満たす存在ではない自己でありながらも、他者に関心をよせ、他者に貢献していくことが大切なのだ、と説いている。

 

「共同体感覚」に必要な鍵は「他者信頼」「他者貢献」「自己受容」である。

 

「他者信頼(他者を仲間だと思えている)」→「他者貢献(他者のためになると自分が思っていることをする)」→「自己受容(自分はここにいていいんだと思える)」(→「他者信頼」)のサイクルによって、人は「共同体感覚」を自ら掘り起こしていくことができるのだという。

 

人が幸せを実感するために大切な感覚が「共同体感覚」なのである。

 

 

おわりに

さて、第一回の考察で、UNDERTALEは「フリスクを自立させる物語である」と述べた。

 

ここまで章立てていくつか筆者が理解している範囲でのアドラー心理学の概要をお伝えしたが、アドラー心理学が向かう先は、人ひとりひとりの「自立」である、と筆者は考えている。

自分が自分らしく生き、その状態で社会と調和して過ごせている……それこそ、「自立」の在り方である

 

 

ここまでの概要をもとに、次回からはアドラー心理学的見地からUNDERTALEを詳細に分析してみたい。