この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。
【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。
【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。
〇第一回 考察にいたったきっかけ―「他者は敵」から「他者は味方」への視点のシフトー
UNDERTALEの視点のシフト
UNDERTALEというゲームは、冒頭から分かりやすく「RPG」の物語を展開する。プレイヤーが小さい頃、ファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイ(カラー)で遊んだことを彷彿とさせるようなデザインで、「ニンゲン」「モンスター」の二極を描く。
はじめて出会う相手(おはなのフラウィー)は主人公に「Lv」の意味を説明する。
「LOVE」すなわち「あい」と説明付けられたその呼び名に違和感をおぼえるものの、この説明からプレイヤーは「Lv」とはRPGにおけるいわゆる「レベル」であるとの認識を強めるだろう。
そして……
はじめてこの場で体面する相手は、「このせかいではころすかころされるか」という認識を改めて主人公に提示する。
「ちてい」世界は、「おちてきたニンゲン」以外はすべて「モンスター」であり、旧来のRPGの認識からすれば、「モンスター」は敵である。すなわち、このゲームの場において、「主人公以外はすべて敵である」という認識を、プレイヤーははじめて合う「相手」=「敵」=「エネミー」である「フラウィー」から学びなおすのである。
しかし……
主人公が「いせき」で、管理人の「トリエル」から教わることは、「たたかう必要はない」ということだ。
そして、トリエルの指示のとおり「はなす」を行ったとき、画面には「YOU WIN!」の文字が踊る。そして、プレイヤーはその違和感に打ちのめされることになるだろう。「こんなことで『勝った』のか?」と。
これが、このゲームのはじめの「価値観の転換」なのである。このゲームで相対するモンスターは決して敵ではないという考え方の、はじめの構築なのである。
主人公は「無能の証明」を行っている
このゲームの主人公は、もしPルート(真エンディング)の最後までたどりつくと「フリスク」という名前を与えられるということは、多くのUNDERTALEプレイヤーの承知のところであろう。つまり、この人物は(Pルートでは)プレイヤーとは違う一人の独立したニンゲンなのである。
ところで、アドラー心理学の考え方の中に「問題行動の五段階」というものがある。問題行動と聞くと一般的には「反抗」や「非行」というものが頭に浮かぶだろうか? アドラー心理学では、問題行動の一番最下層の行動は「自分は無能であると証明すること」なのである。これについては、また章を改めて「キャラの考察」と一緒に記述したいと思う。
ただ、ここで先に述べておきたいのは、このゲームでプレイヤーが動かさなければいけないのは、この「無能の証明」において「動くことも考えることも、全ての行動をやめてしまったニンゲン」なのではないだろうか? そしてUNDERTALEとは、そんなどん底のニンゲンを「フリスク」として独り立ち(=自立)させるための物語なのではないだろうか? ということである。
この話をするためにこの考察を書いているといっても過言ではない。この話は、順をおってゆっくりとしていきたいと思う。
いせきは「子宮」――UNDERTALEは「生まれ変わり」の物語――
いせきの管理人は、プレイヤーには「ママ」と親しまれる「トリエル」である。
「トリエル」の行動のすべてが「母親」を感じさせるものであることは、プレイヤーならばよくお分かりのことだと思う。
「トリエル」がいる間、主人公はバトルさえも必要ない。傷ついても、全て回復してくれる。主人公を庇護する保護者であり、無償の愛をくれる存在、まさに「母親」である。
主人公は「いせき」の内部において、トリエルに「守られている」のである。そして……
彼女と別れを告げるとき、主人公は狭い道をひたすら歩かされる。この図式に、何か覚えはないだろうか……?
▼エリア25~26のマップを参照されたし。
(画像元:レトロRPGの攻略マップ)
(「MOTHER」は「UNDERTALE」に深い影響を与えた作品である)
そう、「子宮」の「産道」である。
これについては、アドラー心理学に詳しい名越さんの実況内でも言及されている。
(※というよりむしろ、この動画がブログ管理人がこの考察を始めるきっかけとなっている。)
UNDERTALEという物語は、「無能の証明」まで落ち込んでしまったニンゲンが、「新しい価値観」を身に着けて、再び「生まれ変わる」ための物語なのである。
誰から生まれ変わるのか?
もちろん「キャラ」からである。そしてキャラとは、「他者(モンスター)は敵」と認知している我々そのものでもある(そもそも「キャラ」はゲームプログラム上の名前で、Gルートで我々が出会う最終の相手は「自分自身(の名前)」のはずだ)。だから、Gルートを歩んでいる間、プレイヤーは何度も「それを行っているのはお前自身だ!」とつきつけられるのである。
もしアドラー心理学の認知を使うなら、UNDERTALEは「他者は敵」と認識しているニンゲン(=キャラ)から「他者は味方である」と認識しなおし、立ち直る(=「フリスク」になる)ための物語なのだと解釈できる。
もし「他者は敵」という「キャラ」的な認識をやめ、「他者は味方」と考えることにより「フリスク」の境地に至れば、アドラー心理学における究極の概念「共同体感覚」に達することができるはずなのである。
さて、そう言われても「他者は敵(味方)」とは? 共同体感覚とは? と、専門的な話がからんできて、これ以上は説明が難しい。このため「第二回」では、アドラー心理学の概要を説明したいと思う。