UNDERTALEをアドラー心理学で読む【番外編:人物考察②アルフィー編】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇番外編:人物考察②アルフィー

第五回まで、Pルートの軌跡をたどってきた。次なる考察は"Genocide Route"(通称Gルート)といきたいところだが、その前にPルートで考察を省略した主要登場人物たちの考察を進めておきたい。前回はトリエルの話であった。パピルスやアンダインは第四回での考察でおおむね完了できたと感じているので、今回は第四回では書ききれなかったアルフィーの話をしようと思う。

 

【人物考察:アルフィー編】

アルフィーは、【第四回】で述べた通り、デートできる主要人物の中で、もっとも共同体感覚から遠いじんぶつであると感じている。

第四回にも書いてあるとおりだが、簡単にまとめていきたい。

 

まず、「共同体感覚」にかかせないものが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」であることは、これまでのアドラー心理学の説明で書いてきたとおりである。

アルフィー「共同体感覚」から遠いのだとしたら、この3つのキーワードから彼女がどれほどかけ離れているかを説明せねばならないだろう。

 

 

アルフィーに足りないもの:「自己受容」

アルフィー「ありのままのじぶん」を好きではない。「ありのままのじぶん」では誰からも好かれるわけがないと思っている。パピルスは「『自己受容』できないかわりに、優越コンプレックスを導く『自己肯定』をしている」というのは第四回のパピルス考察内で述べたが、アルフィーアルフィーで嘘をつき、自分を本来の自分より大きく見せるという「優越コンプレックス」に陥っている

 

ありのままのじぶんにはいいところなんてひとつもないと思っている。

彼女の言動を見ると、彼女が「ありのままのじぶん」に自信を全く持てていないことがお分かりいただけると思う。

 

パピルスが自身のことを「いだいなる」「マスターシェフ」と呼称したように、彼女もまた「あたまがよくてイケてるコ」を演じているのである。

「ありのままのじぶん」を受容できないから、「いつわりのじぶん」で人から好かれようとしている。すなわち、彼女は「劣等コンプレックス」の対であり派生の形である「優越コンプレックス」に陥っているというわけなのだ。(※詳細は【第二回】)

 

彼女がオタク趣味(「ありのままの自分」が好きなもの)を隠し、その表紙を研究者らしいもの(「あたまがよくてイケてる自分」が好きそうなもの)で彩るのは、自分は優れていると見せかける(ことによって相手に好かれようとする)優越コンプレックスの一形態と考えられるのではないだろうか

 

 

 

アルフィーに足りないもの:「他者信頼」

アルフィーの発想は「他者は敵」である。「他者を味方」と思っていれば、ロストソウル戦で彼女を復活させる際に、こんな発言は出てこない。

主人公との関わりを通して、「他者は敵」という認知から「他者は味方」という認知に変えることができたからこそ、ロストソウル戦での彼女のセリフは「みんな わたしの なかまだよ!」と発言することができているのである。

 

また、研究所のゴミ箱に入っている、例の紙クズであるが……

この手紙の送り主が誰であるか、ということは今回は言及しないが、これを送ってきたのが誰であるにせよ、アルフィーにとってこの手紙はひどく恐怖を生むものに違いない。

 

「他者は敵」となっているアルフィーにとって、このたった一枚の手紙は「全体」を現すことと一緒である。「わたしはおまえの敵だ」という内容の手紙を受け取って、「世界は自分の敵である」と認識しているのは他でもない、アルフィーなのである。

 

アルフィーにとって、たった一通の「敵としての宣告(「わたし」はいつでもおまえを陥れることができるぞという宣告)」は、「全体からの敵の宣告」である。本来、アルフィーが何をしたか知っているのは全体の一部分もしくはひとりに過ぎないうえ、その者の発言を他者が本気にするかどうかはアルフィーには分からない。「他者は味方である」とは、そういうことだ。アルフィー側に立ってくれる「ともだち」だっているはずなのだ。

 

それなのに、そのたった一通の手紙が、アルフィーに恐怖を巻き起こした。アルフィーにとっては恐怖でたまらないことになっている。くしゃくしゃに丸めて、ゴミばこに棄てるほどに。

 

もしかしたら、彼女はこの手紙以降、被験者の家族からの手紙を開けることができなくなったのかもしれない。

 

「他者は敵」だと、周りの目が怖くてたまらない。

しかし、「他者は味方」=「手を差し伸べてくれるともだちがいる」
それを知ってしまえば、もう、こわくない。

 

アルフィーには「他者信頼」が足りないということはもう少し深く言及しておきたいところだが、詳しくは次に述べる「他者貢献」とも密接に絡むので、そちらを参照されたい。

 

 

 

アルフィーに足りないもの:「他者貢献」

そもそも、他者に貢献できるのは、「他者を信頼しているから」である。他者が敵ではなく味方であるからこそ、たとえ見返りがなくても、相手が喜ぶことを進んでやることができるのである。そして、相手が幸せな気持ちになることを想像しただけで自分も幸せになる……それが本来の「他者貢献」である。

 

アルフィーは見かけの上で、他者に貢献しようとしているように見える。しかし、彼女の貢献はアドラー心理学で推奨されるところの「他者貢献」ではない。彼女はそれをすることで人に好かれ、相手の特別な存在になりたいからその人の喜ぶことをしようと考えるのである。

つまり、彼女は「他人の価値観に合わせ、他人の価値観の人生を生きる」ことで、見返り的に「他者からの承認」を得ようとしているに過ぎない。

それは「自己受容」に欠いた生き方であり、そんなことをしている限り、彼女は「ありのままのじぶん」を受け入れることはできない。それができなければ、他者を信頼し、他者に貢献することなど二の次である。

 

二度目だが(※一度目は【第四回】)、「~してくれない」とは見返りを求める発想である。彼女は「私がボディを作るんだから、見返りに私を愛せ」と要求しているのである。

 

メタトンと彼女の関係は、見返りなくメタトンのためにボディを作ろうとする(そしてそれが喜びであるという)彼女の内発的な良心の働きかけではなく、メタトンがわたしとともだちでいてくれるならボディを完成させることができる、という――「見返り」の発想であり、それは彼女が「メタトン(他者)を信頼していない」という何よりの証拠である。

「メタトンが」アルフィーとともだちでいたいかどうか決めるのは「メタトン」である。
そして、「じぶんがメタトンとともだちかどうか」、それを認識するのは「アルフィー自身」でもある。メタトンがどういう態度をとるにせよ、彼女がメタトンとともだちであると信じれば、メタトンは彼女のともだちなのだ。
彼女は「課題の分離」ができず、自分を信じられず、そしてメタトンを信じられないから、自分がボディを完成させたらともだちじゃなくなると思い込んでいる。
さらにいえば「自己受容」ができていない彼女はとうぜん、「ありのままの自分」がメタトンに好かれると考えられるわけがない。

彼女の発想は「信頼(担保などなくても相手を信じられる)」ではなく「信用(担保があるから相手を信じられる」の発想なのである。

 

青年 そうですね。端的に言うなら「信用」とは相手を条件つきで信じることです。例えば銀行からお金を借りるとき。当然ながら銀行は、無条件に貸し出すようなことはしません……中略……「あなたの用意した担保の価値を信じるから貸す」という態度です。要するに「その人」を信じているのではなく、その人の持つ「条件」を信じている。

哲人 それに対して「信頼」とは?

青年 他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信じるに足るだけの根拠がなかろうと、信じる。……中略……その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

つまり、彼女の行動は「他者信頼」に基づいた「他者貢献」ではなく、

「見返り(担保)」に基づいた、「見せかけの貢献」なのである。

 

「見返り」という発想には「他者信頼」がない。なぜなら、他者が敵であれば、自分が他者に与え続ける行為を「貢献」ではなく、「搾取」と捉えてしまうのだから。
他者に与えれば与えた分だけ、「自分ばかりが犠牲を強いられる」と感じてしまうのである。人は、敵に与え続けることは苦痛なのである(もちろん、それがともだちでいたい相手であっても。「他者は敵」という認知とは、そういうことである。)

 

他者が味方であるからこそ、自分への見返りなど考えることなく、他者の幸せのために貢献することができるのである。

そしてその「貢献感」が、承認欲求から自己を解き放ち、自己受容の道を切り拓く。

 

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」は、「共同体感覚」に必須のサイクルなのである。

 

 

アルフィー自身が選び取った「過去のトラウマ」

彼女がこれまでの人生でどういう過程を経て、このようなライフスタイルを形成するにいたったかは知る由もないが、本人が言うように「彼女の実験がたくさんの人を不幸にしたから」彼女がこうなってしまったとは考えにくい(それは「原因論」的な考え方である)。どちらかといえば、彼女はすでにこのライフスタイルを形成していて、そのライフスタイルの目的にそった不幸を、彼女自身で選択して選んでいるかのようである。

 

彼女がいつそのライフスタイルを選択したかは定かではない。キャッティやアリゲッティが昔はよくゴミすてばに連れて行ってくれてた、へんなアニメを見せてくれた(今は研究所にこもりきりで、最近姿を見かけていない)と言っているため、そのころはまだ彼女は自由に生きていたのかもしれない。

 

また、以前は自ら「ニンゲンファンクラブ」の集いに赴いたことを考えれば、そのころはもう少し積極性があったに違いない。メタトンの日記には「ちょっとダサい」と書かれてはいるものの、「へんなアニメのはなしばっかりする」こともできるし、「おもしろい」から「またあってみたい」とまで言わせている。

 

しかし、彼女の生き方は先に見てきた通り、「みんなからすかれるひとをえんじていたい」というものである。これは自らの生き方に嘘をつく生き方であり、彼女の生き方には自由がない。メタトンのためとはいえ、メタトンNEOの存在そのものも、彼女の嘘の一部ということになる。

 

 誰からも嫌われないためには、どうすればいいか? 答えはひとつしかありません。常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。

 しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん嘘をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。

(中略)

 他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

彼女の生き方には「自由」がない。自由のない幸せなど存在しはしない。すなわち、彼女は「いま現在」が、「不幸」なのである

 

ひとはいま現在が不幸だと、その不遇なる今が、なぜ不遇なのかの原因を探してしまう。そうして、過去にこういうトラウマがあったから、今の自分は卑屈な生き方をしてしまうようになったんだ(本当の自分にはもっとよくなる可能性があったのに)と、すべてを過去のせいにして今の辛さを忘れようとする。

 

psychology.tokyo-workshop.info

 

 誰にだって悲しい出来事もあれば挫折もあり、歯嚙みするほど悔しい仕打ちにも遭っている。それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだその出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人がいるのか?
 これは過去に縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているのです。あえて厳しい言い方をするなら、悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」のつらさを忘れようとしているのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

そして、そのアルフィーが見つけ出す最大の過去の不幸は――「自分の研究が、多くのひとを不幸にしてしまったこと」であった。

 

彼女は、彼女のいま現在に、自由がなく、不幸であることの理由付けに「自分の研究が失敗に終わったこと」を持ち出しているのである。あんな過去がなければ、私ももっと自由に生きることができたはずなのにと、そう思えるために。

 

誰かがこのことを知っているに違いない、自分はそれを反省しているように過ごさなければいけない。おいそれと外に出ることは許されない、誰かが私を見張っているかもしれない。

そう考えることで、彼女は彼女の体面すべき対人関係(=他者に対して自由な自分をさらけ出すこと)から逃げているのである。

 

あの過去に縛られ、自信のない行動をとり続けることで、もし他者に嫌われても「私にはあんな過去があって、そのせいでこんな性格になってしまっただから嫌われても仕方ないんだ」と、過去の事件を嫌われる言い訳にしているのである。

 

ここまで読んだ読者の方は「実際に重い過去を抱えているのだから仕方がない」と思うだろうか? アルフィーがそう感じるのは、考えるのは当然のことだと、そのくらい彼女の行った研究の罪は重いと、そう思うだろうか?

 

しかし、Pルートで真実が露呈したあと、皆が見せた反応は……

おそらく当時アルフィーが予想したものとは大幅に違っていただろう。

なんと、アルフィーに感謝すらしているのである。

みんなはわたしのことを許してくれない、わたしはみんなに嫌われて当然……そう考えているのは、アルフィーただ一人なのである。

これは、アルフィー他者を信頼できていない証拠である。

 

アルフィーは、「いまのわたし」が「不幸」である言い訳に、「過去のトラウマ」を引っ張りだしてきているだけなのである。

 

しかし、モンスターもニンゲンも、過去のトラウマに縛られるほど、脆弱な生き物ではない。

 

 

⑤「変わりたい」と願うようになったアルフィー

アルフィーは、デートの前に、「もっといい『わたし』になりたい」とすでに考え始めるようになっている

アドラー心理学は、他者を変える心理学ではない。自分自身が強い決意を持ち、新しい自分に変わるための心理学なのである。

すべてを変えるのは「自分自身」なのである。

 

なぜ、(この時点ではその思いが感覚的なものにせよ、)もっといい自分になろうと思えるようになったのだろうか? 

主人公とのやりとりで、「じしんがわいてきた」からだろうか?

まったくじしんが湧いていなさそうな顔である(嘘をついている?)

しかし、このやりとりの全ては「お芝居」であり、「嘘をつき続けている」彼女が、自分を変わる決心をすることができたとは思いにくい。

 

そこで、筆者は、彼女の決心を「メタトンとの関係」に見たいと思う。

 

このままの自分では大切なひとを信頼できないまま過ぎてしまうかもしれないことを感じ取ったからかもしれない、ということだ。

このあと、アルフィーはメタトンが生きていて、心底安心する。それは、メタトンが彼女に対してどういう態度をとるにせよ、メタトンという存在は彼女にとって限りなく大事な存在であると再認識させる発端だっただろう。

 

メタトンが彼女に対してどういう態度であろうと、彼女の心はメタトンのことが好きなのであり、それはひとつの愛の形である(恋愛感情という意味ではない)。もしそれを彼女が身をもって実感したのなら、彼女の対人関係の在り方はこのままでいいわけがない。(なぜなら、この時点での彼女のメタトンとのあり方は「信頼」関係ではないのだから。)

 

彼女は自分を変えるケツイを持たなければならないのである。

 

 

そして、前述のとおり、彼女はデートの直前には、そのケツイを持ち始めている。

ここでは、前者を選ぶと真実を打ち明けることを、後者を選ぶと嘘をつきとおすことをそれぞれ否定する。


彼女自身も「このままではいけない」「変わりたい」と願っている
しかし、その「ゆうき」がもてずにいるのである。

アドラー心理学とは、勇気の心理学である。

ここで彼女に必要なのは、くじかれた勇気をとりもどすための、他者からの「勇気づけ」である。彼女はすでに「変わりたい」という決心を抱いているのだから、あとはくじかれた「勇気」さえ取り戻せば、彼女は変わることができるのだ。

 

 

アルフィーとのデート:勇気づけ、そして「共同体感覚」への呼びかけ

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」のサイクルが成立せず、「共同体感覚」を得られないアルフィーは、生存本能的な恐怖である「孤独」から手っ取り早く抜け出すために「他者からの承認」を必要とする

すなわち、誰からも好かれる自分を演じるということである。

 

彼女には嫌われる勇気がない。とにかくとことん、他者から嫌われることを恐れるのである。

そして、そんな彼女の生き方には「自由」がない。「自由」がないと人の心は弱っていく。アルフィーも、毎日が怖くて怖くて仕方がなくなる。

彼女には自由が必要である。そのためには、彼女の対人関係のライフスタイルを一新させなければならないだろう……というのが、ここまでのまとめである。

 

さて、ここで、彼女のライフスタイルをよりよくする第一歩を考えたい。

 

アドラー心理学の「対人関係の入り口」とは、それすなわち「課題の分離」である。

 

 独善的にかまえるのでもなければ、開き直るのでもありません。ただ課題を分離するのです。あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。
 嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

対人関係は、課題を分離したところで終わるものではありません。むしろ課題を分離することは、対人関係の出発点です。(引用:同著)

(ちなみにゴールは「共同体感覚」)

 

そして、彼女にはそれを教えてくれる最適な人物が存在する。

主人公とのデートで、課題の分離をもっともよく分かっていた人物――アンダインである。

 

主人公は、アルフィー自身がまずアンダインに自分の嘘を打ち明けるための、ほんの少しの勇気づけをしたのだと思われる。

 

ロールプレイという「援助」によって。

 

 

 介入とは、こうした他者の課題に土足で踏み込み、「勉強しなさい」とか「あの大学を受けなさい」と指示することです。
 一方の援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。勉強は子どもの課題である、と理解した上で、できることを考える。具体的には、勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に向かっていけるように働きかけるのです。
(中略)

 こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

あのロールプレイは、アルフィー「自分は他者に自分の罪を打ち明けることができるのだ」と自信を持たせる行為に違いないだろう。

主人公が、アルフィーの代わりにアンダインに伝える(=介入する)のではなくアルフィー自身がそれを行うことができるように援助する「勇気づけ」を行ったのだ。

 

そしてとうとうアルフィーは、アンダインに「ありのままのじぶん」を打ち明けることに成功する。

そこで返ってきたアンダインの答えは、アルフィーにとっては目から鱗だったであろう。

自分の主観世界から見えていた「オタクはダサい→だから私は嫌われる」という原因論に基づく彼女の心情を真っ向から否定されたのだから。

 

アルフィーがどう思おうが、アンダインがどう思うかはアンダインの自由である。対人関係の入り口は、いつだってそこ(課題の分離)なのだ。相手が何を考えているのか、究極的には分かることはできない。だから、自分が何かすることに対して、相手が何を思うか、それはすべて自分ではどうにもならないことなのだ。勝手な憶測をつけることすら、ある意味おこがましいともいえる。

 

そして、アンダインも彼女への援助(勇気づけ)を申し出る。

 

彼女はこうして、課題の分離の考え方の第一歩に踏み出すことができたのだと筆者は感じている。あとは、優越コンプレックスに繋がる、彼女自身が抱える大きな「承認欲求」だが……

 

 

それはパピルスから「自己受容」の姿勢を学ぶことができれば、脱却できるであろう。

 

先にみたとおり、「共同体感覚」とは「自己受容」→「他者信頼」→「他者貢献」のサイクルである(※詳細は【第二回】を参照されたし)。「課題の分離」という対人関係の入り口に立ち、「自己受容」を学ぶことができれば、彼女は必然的に「他者信頼」「他者貢献」もできるようになるだろう。

 

彼女が、彼女自身が選び取った「不幸」から脱却するには、パピルスとアンダイン、どちらの存在も欠かせない。だから、彼女は不殺Nルートの先でしか、デートをすることができないのである(誰かを殺してしまったら、アンダインと主人公との友達関係は破綻するのだから)。

 

そしてもし、彼女が変わる決心をするきっかけが「メタトンとの関係を修復したい」なのだとすれば、彼女はメタトンなしでは変わることができないことになる。

 

メタトンとアンダイン、そのどちらが欠けても、彼女は「とりかえしのつかないにげかた」をしてしまうのである。

(※ただひとつ、G未遂のルートを覗いては。ここに関しては、別の記事でGルートの考察とともに見ていきたい。)

 

 

 

⑦変わることができたアルフィー:しんじつのラボへ

彼女が変わることができたことは、先に見せたロストソウル戦の「みんな わたしの なかまだよ! わたしも みんなが だいすきだよ!」というセリフにもよく表れているが、しんじつのラボに導いている時点で、彼女は自分自身が変わる(または、その一歩を踏み出す)ことに成功しているとみえる。

彼女がまず口にしたのは(※ただしくは文字に示したのは)、「感謝」である。

アドラー心理学では「称賛」を否定する。他者を褒めることは、他者を下に見る「縦の関係」の考え方であり、他者を自分の価値観の中に置くことだ。相手の承認欲求を強めてしまう効果を持つ。

アドラー心理学では「褒める」かわりに「ありがとう」を伝えることを推奨する。「ありのままのその人」がしてくれたこと、いてくれることに「感謝をする」のである。これは、他者を自分の価値観の中に置かない、他者を同等に見る「横の関係」の考え方である。

デート以降のアルフィーはたびたび「ゆうき」という言葉を用いる。

そして、「あらためてみとめるのはゆうきがいるけど」と勇気を語ったうえで、「あらためてみとめる」ことができているのである。すなわち、彼女は「勇気」を身につけている。

 

 

そして、「課題」は、「自分自身で解決するものだ」という認識を強めている

 

すなわち、ここでのアルフィーは、他者の言った方法にしたがって課題を解決するのではなく、他者に責任転嫁のできない条件で、自分自身の良心のみで課題に立ち向かおうとしているのである。

 

他者が「打ち明けた方がいいから打ち明けろ」というのに「従う」のは、自分の人生を他者にあずけ、「あなたが打ち明けろって言ったから打ち明けたのに、失敗した、どうしてくれるんだ」と他者に責任転嫁をする言い訳をする生き方である。

 

そうではなく、彼女は自分の意志で自分の問題に向き合い、自分の力で課題を解決しようとしているのである。

彼女は、「自分には課題を解決する能力がある」と、分自身をじる(=自信を持つ)ことができるようになったのである。

 

これは、彼女が勇気を持った何よりの証拠である。

 

そして、彼女は「他者に合わせる」のではなく、「自分を信じて、自分の良心に従って行動する」決心をしているのである。他者の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きる。それは自由であり、幸福への第一歩である。

もちろん、その行為によってつらく苦しい思いをすることはあるだろう。「ありのままのじぶん」が傷つくことは「うそいつわりの自分」が傷つくよりずっとつらい。しかし、「ありのままの自分」が「ここにいていいんだ」という所属感を持てたとき、そのときの幸福は「うそいつわりの自分」が他者に認められる幸福よりもずっと大きいはずだ。

そして、ひとは誰しも失敗をする。ひとは失敗からしか学べない。自分が自分らしく行動して失敗したなら、「次はこうしよう」と新しい学びを得ることができる。

それが、「そのひとらしい生き方」なのだ。

 

 

 

 

アルフィーが、彼女自身が望む「いいモンスター」になれたかどうかは、読者の方々は、そしてUNDERTALEを愛するすべてのプレイヤーは、もうじゅうぶん、理解していることだろう。