【UT考察じゃなくてすみません】メルエムとコムギが、軍儀でつながるINTJ/INFPの最高の取り合わせだっていう話をしたい。【H×H mbti】

趣味でMBTIの本を読んで、ぼや~っとハンターハンターのメルエムとコムギってすごくINTJ/INFPのうまくいった関係値かもしれないと思ったので備忘録。

bookmeter.com

 

 

ハンター×ハンターのMBTI考察スレまとめでは、メルエムとコムギにそれぞれINTJ/INFPが割り振られている。

character-seikaku.memo.wiki

 

メルエムがINTJというのは自分で考えたのではなく、このスレまとめを見て初めて知ったものだが、彼の、忠義を尽くす家臣すら寄せ付けず独立した思考を強く持っているところはたしかに強いINTJ性を感じるし、INTJでなければどの性格タイプが一番当てはまるのか?と言われると他に当てはまりそうなものもない。

また戦略的なゲーム(将棋、囲碁軍儀)に興じ、戦争を戦略ゲームのようにとらえているところなど、INTJの興味関心特徴とよく合致する、とは思う。

コムギは私もINFPだと思った。最初にそれを感じたのは、キルアに背負われているところに、キルアが我々(キメラアント側)の敵であると言われたときに、ものすごく暴れたときだ。彼女はその場の状況を合理的に判断する前に、自分の感情をとても大事にするタイプに見える。自分の大事な人に対して懐疑的になることは非常に少ない。そして、一番INFP性を感じられるのが最後のメルエムとの一局と、メルエムのことを名前で呼ぶシーンだと思う。彼女には強い共感性と、たとえ何があろうとも大事にしたいと思う人を信じ、大事にしたい人についていく心、そして大事な人のために自身を貢献したいと思う強い心(自分がメルエムを名前で呼ぶことは不敬だと思うが、メルエム自身がそれを強く望んでいると感じたとき、彼女はその気持ちに共感し、彼を喜ばせようと全力になる)を持っている。これは、自分の理想世界を追い求め、その信条に従う機能(Fi)の強いINFPらしい行動だと思う。軍儀のことばかり考えて他がおろそかになるあたりも、空想が得意で、凝り性(P型)のINFPらしい。

 

ただ、メルエムとコムギ個人個人がINTJ/INFPかどうかは置いておいても、このふたりの関係値はめちゃくちゃINTJ/INFPの取り合わせだと思う。(だからメルエムもINTJなんだろう、ってことにしたい。笑)

 

INTJとINFPの関係は、「生徒と先生のような関係」と言われる。

narukinhonda.com

 

少し専門的な話になるが、INTJにとってINFPは、自分がうまく扱えない機能をよりよく日常で使っている、先生のような立場の人だというのである。簡単に説明してみたい。

 

〇INTJの心理機能(上にあるものほどよく使う機能)

優勢機能 Ni (内向的直観)…ものごとの本質を見抜く。

補助機能 Te (外向的思考)…情報を原理原則から分析する。

代替機能 Fi (内向的感情)…自分の心情や信念に基づいて行動する。※1

劣等機能 Se(外向的感覚)…現在の状況を細かく知覚する。※2

 

〇INFPの心理機能

優勢機能 Fi (内向的感情)…自分の心情や信念に基づいて行動する。

補助機能 Ne(外向的直観)…ものごとを多角的に捉え可能性を広げる。

代替機能 Si(内向的感覚)…過去の経験や記憶から情報を精査する。

劣等機能 Te(外向的思考)…情報を原理原則から分析する。

 

※1 代替機能は、その人が「うまく使えていない」と感じる機能であり、この機能をうまく使える人を尊敬しやすい。

※2 劣等機能は、その人が最も活用しない機能であり、その機能をよく使う人に対して嫌悪感を抱くこともある。

 

INTJにとって、INFPは自身が苦手とする「Fi」をとてもうまく活用する人であり、INFPにとってINTJは自身が最も活用せず、有用性を感じない「Te」を日常でよく用いている。このため、INTJにとってINFPは自分ができないことを進んでできる人であり、INFPにとってINTJはよくないところが目につく存在、つまり生徒(INTJ)と先生(INFP)の関係性なのである。

 

さて、しかし、先にリンクをおいた記事にあるとおり、そういう関係性であるからこそ、実は、先生側の立場は生徒側の立場から学ぶことは多いのである。すなわち、「Te」という、最も活用していないが、本当は心理機能として持っている機能をうまく活用することのできるのが、生徒側だからである。

この「生徒と教師」の関係において最もうまくいく場合というのは、教師側が生徒側を尊重した時である。それがない場合、生徒側は先生側から妙にアドバイスを受けたり、干渉されている、または嫌悪感を持つ相手として避けられていると感じ、居心地の悪い関係性になってしまうだろう。

この関係の場合は、教師側が、生徒側を「改善すべき人」と受け取るのではなく、生徒側の考え方を理解しようとすることによって、教師側は生徒側から受け取れることが、実は非常に多いという関係値である。

 

そして、INFPはかなり共感性の高い(Fが主体の)タイプ像であるため、INFPが教師側となる場合、この生徒側への寄り添いができる場合が多い。この関係値においては、タイプによっては相手の許せない部分がかなり目立って見えるのだが、FP型の場合、Pが可能性を広げるタイプ型、Fが共感のタイプ型なので、相手のいいところをよく探そうとする……ように思う。

INTJは非常に独立心が強いタイプなので、おせっかいを焼かれたり、アドバイスを受けることが多いと、自尊心が傷つき、居心地が悪いと感じることがある(メルエムが、ピトーやプフの心配を非常に煩わしいと感じて一人になりたがることとよく一致する)。しかし、INFPは自己主張が強くなく、また相手の立場に非常によく共感するため、この衝突が起きにくい

 

メルエムとコムギがこの取り合わせの場合、メルエムはコムギが示す共感能力と自己犠牲的な貢献、そしてその信念に対し、無意識化で強いあこがれを抱くと思われる。逆にコムギは、自分とは違う生き方をするメルエムを、一度大切な人だと感じたら、その考え方を尊重し、強く寄り添おうとするだろう。つまり、非常によい関係が築きやすいのである。

 

メルエムは独善的であるし、冷たい性格のように見える。しかしコムギは、強い共感性と、可能性を広げてものごとを捉える能力に長けているため、メルエムの行いに対し、いいところを探そうとするだろう。メルエムが心の底で何を思っていようと、コムギにとっては「軍儀以外に何も取り柄のない自分を大切にしてくれる存在」に他ならないのだ。コムギはおそらく、メルエムの冷たい物言いよりも、メルエムに大切にしてもらったり、守ってもらった方の記憶を大切な記憶として保持するだろう。

 

INFPのタイプ説明

www.baitoru.com

 

そして、コムギにとっては、軍儀ができることが何よりも嬉しいことである。コムギの実力を前に、軍儀の道を諦めた人を、おそらくコムギはこれまでに何度も見ている。コムギは軍儀を打ち続けたいとおもっても、自身の実力故に、他を寄せ付けない存在になってしまった。

対してメルエムは、INTJであるならば、自分の実力に対して自信を持ち、自分にできないことはない、ととらえることができるはずである。INTJは自身の強い直観を信じていて、自身の論理的分析力にも自信があるタイプ類型だ。長期的な目線にたって物事を捉えるうえに、独立志向がこれでもかというほど強いので、「最終的にすべてを自分一人でやれる人になりたい」という克己心を強く持つ。自身を上に押し上げる際に生じる、諦めや怠慢に対して強い抵抗力を持つタイプである。このため、軍儀で何度コムギに負けようと、最終的にはコムギに勝ってやる、という意志が固く、そのための努力は怠らない。

 

INTJのタイプ説明

www.baitoru.com

 

つまり、メルエムは、コムギの「軍儀を打ちたい」という気持ちに、心折れることなくずっとついて行けるのである。

また、INTJは戦略タイプと言われ、囲碁や将棋などを好むというタイプ類型でもある。メルエムにとって軍儀は非常に楽しい性質をもつものだろう。

この二人は、軍儀でつながるという意味において、最高の相性を持つと考えられると思う。

 

 

……ということで、この二人が軍儀で出会ったのは素晴らしい運命だったのではないかと思う。王ムギよ幸せであれ。

 

 

 

余談

メルエムはコムギを守りたいと思った時、「何だ、この感情は!?」と感じるのだが、その感情がメルエムにとって非常に合理的ではない感情なので、戸惑っているように思う。しかしINTJは代替機能がFi、すなわち心のうちに自分の心情とそれにしたがって行動したいという強い思いを秘めている。メルエムにはこれがすごく当てはまっていると思う。メルエムは自分の感情を合理的でないと感じながら、その気持ちに従って行動することに喜びを感じるはずで、コムギを守ることはメルエムにとって至上の喜びであるし、また、メルエムはコムギからFiを学ぶことによって、優しい人になれるのだろう、と思う。メルエムが心のうちにコムギへの激情を秘めていることは、プフが見たメルエムの心情風景により明らかである。メルエムは心のうちに、あの心情風景を持つのである。

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【番外編:人物考察②アルフィー編】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇番外編:人物考察②アルフィー

第五回まで、Pルートの軌跡をたどってきた。次なる考察は"Genocide Route"(通称Gルート)といきたいところだが、その前にPルートで考察を省略した主要登場人物たちの考察を進めておきたい。前回はトリエルの話であった。パピルスやアンダインは第四回での考察でおおむね完了できたと感じているので、今回は第四回では書ききれなかったアルフィーの話をしようと思う。

 

【人物考察:アルフィー編】

アルフィーは、【第四回】で述べた通り、デートできる主要人物の中で、もっとも共同体感覚から遠いじんぶつであると感じている。

第四回にも書いてあるとおりだが、簡単にまとめていきたい。

 

まず、「共同体感覚」にかかせないものが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」であることは、これまでのアドラー心理学の説明で書いてきたとおりである。

アルフィー「共同体感覚」から遠いのだとしたら、この3つのキーワードから彼女がどれほどかけ離れているかを説明せねばならないだろう。

 

 

アルフィーに足りないもの:「自己受容」

アルフィー「ありのままのじぶん」を好きではない。「ありのままのじぶん」では誰からも好かれるわけがないと思っている。パピルスは「『自己受容』できないかわりに、優越コンプレックスを導く『自己肯定』をしている」というのは第四回のパピルス考察内で述べたが、アルフィーアルフィーで嘘をつき、自分を本来の自分より大きく見せるという「優越コンプレックス」に陥っている

 

ありのままのじぶんにはいいところなんてひとつもないと思っている。

彼女の言動を見ると、彼女が「ありのままのじぶん」に自信を全く持てていないことがお分かりいただけると思う。

 

パピルスが自身のことを「いだいなる」「マスターシェフ」と呼称したように、彼女もまた「あたまがよくてイケてるコ」を演じているのである。

「ありのままのじぶん」を受容できないから、「いつわりのじぶん」で人から好かれようとしている。すなわち、彼女は「劣等コンプレックス」の対であり派生の形である「優越コンプレックス」に陥っているというわけなのだ。(※詳細は【第二回】)

 

彼女がオタク趣味(「ありのままの自分」が好きなもの)を隠し、その表紙を研究者らしいもの(「あたまがよくてイケてる自分」が好きそうなもの)で彩るのは、自分は優れていると見せかける(ことによって相手に好かれようとする)優越コンプレックスの一形態と考えられるのではないだろうか

 

 

 

アルフィーに足りないもの:「他者信頼」

アルフィーの発想は「他者は敵」である。「他者を味方」と思っていれば、ロストソウル戦で彼女を復活させる際に、こんな発言は出てこない。

主人公との関わりを通して、「他者は敵」という認知から「他者は味方」という認知に変えることができたからこそ、ロストソウル戦での彼女のセリフは「みんな わたしの なかまだよ!」と発言することができているのである。

 

また、研究所のゴミ箱に入っている、例の紙クズであるが……

この手紙の送り主が誰であるか、ということは今回は言及しないが、これを送ってきたのが誰であるにせよ、アルフィーにとってこの手紙はひどく恐怖を生むものに違いない。

 

「他者は敵」となっているアルフィーにとって、このたった一枚の手紙は「全体」を現すことと一緒である。「わたしはおまえの敵だ」という内容の手紙を受け取って、「世界は自分の敵である」と認識しているのは他でもない、アルフィーなのである。

 

アルフィーにとって、たった一通の「敵としての宣告(「わたし」はいつでもおまえを陥れることができるぞという宣告)」は、「全体からの敵の宣告」である。本来、アルフィーが何をしたか知っているのは全体の一部分もしくはひとりに過ぎないうえ、その者の発言を他者が本気にするかどうかはアルフィーには分からない。「他者は味方である」とは、そういうことだ。アルフィー側に立ってくれる「ともだち」だっているはずなのだ。

 

それなのに、そのたった一通の手紙が、アルフィーに恐怖を巻き起こした。アルフィーにとっては恐怖でたまらないことになっている。くしゃくしゃに丸めて、ゴミばこに棄てるほどに。

 

もしかしたら、彼女はこの手紙以降、被験者の家族からの手紙を開けることができなくなったのかもしれない。

 

「他者は敵」だと、周りの目が怖くてたまらない。

しかし、「他者は味方」=「手を差し伸べてくれるともだちがいる」
それを知ってしまえば、もう、こわくない。

 

アルフィーには「他者信頼」が足りないということはもう少し深く言及しておきたいところだが、詳しくは次に述べる「他者貢献」とも密接に絡むので、そちらを参照されたい。

 

 

 

アルフィーに足りないもの:「他者貢献」

そもそも、他者に貢献できるのは、「他者を信頼しているから」である。他者が敵ではなく味方であるからこそ、たとえ見返りがなくても、相手が喜ぶことを進んでやることができるのである。そして、相手が幸せな気持ちになることを想像しただけで自分も幸せになる……それが本来の「他者貢献」である。

 

アルフィーは見かけの上で、他者に貢献しようとしているように見える。しかし、彼女の貢献はアドラー心理学で推奨されるところの「他者貢献」ではない。彼女はそれをすることで人に好かれ、相手の特別な存在になりたいからその人の喜ぶことをしようと考えるのである。

つまり、彼女は「他人の価値観に合わせ、他人の価値観の人生を生きる」ことで、見返り的に「他者からの承認」を得ようとしているに過ぎない。

それは「自己受容」に欠いた生き方であり、そんなことをしている限り、彼女は「ありのままのじぶん」を受け入れることはできない。それができなければ、他者を信頼し、他者に貢献することなど二の次である。

 

二度目だが(※一度目は【第四回】)、「~してくれない」とは見返りを求める発想である。彼女は「私がボディを作るんだから、見返りに私を愛せ」と要求しているのである。

 

メタトンと彼女の関係は、見返りなくメタトンのためにボディを作ろうとする(そしてそれが喜びであるという)彼女の内発的な良心の働きかけではなく、メタトンがわたしとともだちでいてくれるならボディを完成させることができる、という――「見返り」の発想であり、それは彼女が「メタトン(他者)を信頼していない」という何よりの証拠である。

「メタトンが」アルフィーとともだちでいたいかどうか決めるのは「メタトン」である。
そして、「じぶんがメタトンとともだちかどうか」、それを認識するのは「アルフィー自身」でもある。メタトンがどういう態度をとるにせよ、彼女がメタトンとともだちであると信じれば、メタトンは彼女のともだちなのだ。
彼女は「課題の分離」ができず、自分を信じられず、そしてメタトンを信じられないから、自分がボディを完成させたらともだちじゃなくなると思い込んでいる。
さらにいえば「自己受容」ができていない彼女はとうぜん、「ありのままの自分」がメタトンに好かれると考えられるわけがない。

彼女の発想は「信頼(担保などなくても相手を信じられる)」ではなく「信用(担保があるから相手を信じられる」の発想なのである。

 

青年 そうですね。端的に言うなら「信用」とは相手を条件つきで信じることです。例えば銀行からお金を借りるとき。当然ながら銀行は、無条件に貸し出すようなことはしません……中略……「あなたの用意した担保の価値を信じるから貸す」という態度です。要するに「その人」を信じているのではなく、その人の持つ「条件」を信じている。

哲人 それに対して「信頼」とは?

青年 他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信じるに足るだけの根拠がなかろうと、信じる。……中略……その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

つまり、彼女の行動は「他者信頼」に基づいた「他者貢献」ではなく、

「見返り(担保)」に基づいた、「見せかけの貢献」なのである。

 

「見返り」という発想には「他者信頼」がない。なぜなら、他者が敵であれば、自分が他者に与え続ける行為を「貢献」ではなく、「搾取」と捉えてしまうのだから。
他者に与えれば与えた分だけ、「自分ばかりが犠牲を強いられる」と感じてしまうのである。人は、敵に与え続けることは苦痛なのである(もちろん、それがともだちでいたい相手であっても。「他者は敵」という認知とは、そういうことである。)

 

他者が味方であるからこそ、自分への見返りなど考えることなく、他者の幸せのために貢献することができるのである。

そしてその「貢献感」が、承認欲求から自己を解き放ち、自己受容の道を切り拓く。

 

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」は、「共同体感覚」に必須のサイクルなのである。

 

 

アルフィー自身が選び取った「過去のトラウマ」

彼女がこれまでの人生でどういう過程を経て、このようなライフスタイルを形成するにいたったかは知る由もないが、本人が言うように「彼女の実験がたくさんの人を不幸にしたから」彼女がこうなってしまったとは考えにくい(それは「原因論」的な考え方である)。どちらかといえば、彼女はすでにこのライフスタイルを形成していて、そのライフスタイルの目的にそった不幸を、彼女自身で選択して選んでいるかのようである。

 

彼女がいつそのライフスタイルを選択したかは定かではない。キャッティやアリゲッティが昔はよくゴミすてばに連れて行ってくれてた、へんなアニメを見せてくれた(今は研究所にこもりきりで、最近姿を見かけていない)と言っているため、そのころはまだ彼女は自由に生きていたのかもしれない。

 

また、以前は自ら「ニンゲンファンクラブ」の集いに赴いたことを考えれば、そのころはもう少し積極性があったに違いない。メタトンの日記には「ちょっとダサい」と書かれてはいるものの、「へんなアニメのはなしばっかりする」こともできるし、「おもしろい」から「またあってみたい」とまで言わせている。

 

しかし、彼女の生き方は先に見てきた通り、「みんなからすかれるひとをえんじていたい」というものである。これは自らの生き方に嘘をつく生き方であり、彼女の生き方には自由がない。メタトンのためとはいえ、メタトンNEOの存在そのものも、彼女の嘘の一部ということになる。

 

 誰からも嫌われないためには、どうすればいいか? 答えはひとつしかありません。常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。

 しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん嘘をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。

(中略)

 他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

彼女の生き方には「自由」がない。自由のない幸せなど存在しはしない。すなわち、彼女は「いま現在」が、「不幸」なのである

 

ひとはいま現在が不幸だと、その不遇なる今が、なぜ不遇なのかの原因を探してしまう。そうして、過去にこういうトラウマがあったから、今の自分は卑屈な生き方をしてしまうようになったんだ(本当の自分にはもっとよくなる可能性があったのに)と、すべてを過去のせいにして今の辛さを忘れようとする。

 

psychology.tokyo-workshop.info

 

 誰にだって悲しい出来事もあれば挫折もあり、歯嚙みするほど悔しい仕打ちにも遭っている。それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだその出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人がいるのか?
 これは過去に縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているのです。あえて厳しい言い方をするなら、悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」のつらさを忘れようとしているのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

そして、そのアルフィーが見つけ出す最大の過去の不幸は――「自分の研究が、多くのひとを不幸にしてしまったこと」であった。

 

彼女は、彼女のいま現在に、自由がなく、不幸であることの理由付けに「自分の研究が失敗に終わったこと」を持ち出しているのである。あんな過去がなければ、私ももっと自由に生きることができたはずなのにと、そう思えるために。

 

誰かがこのことを知っているに違いない、自分はそれを反省しているように過ごさなければいけない。おいそれと外に出ることは許されない、誰かが私を見張っているかもしれない。

そう考えることで、彼女は彼女の体面すべき対人関係(=他者に対して自由な自分をさらけ出すこと)から逃げているのである。

 

あの過去に縛られ、自信のない行動をとり続けることで、もし他者に嫌われても「私にはあんな過去があって、そのせいでこんな性格になってしまっただから嫌われても仕方ないんだ」と、過去の事件を嫌われる言い訳にしているのである。

 

ここまで読んだ読者の方は「実際に重い過去を抱えているのだから仕方がない」と思うだろうか? アルフィーがそう感じるのは、考えるのは当然のことだと、そのくらい彼女の行った研究の罪は重いと、そう思うだろうか?

 

しかし、Pルートで真実が露呈したあと、皆が見せた反応は……

おそらく当時アルフィーが予想したものとは大幅に違っていただろう。

なんと、アルフィーに感謝すらしているのである。

みんなはわたしのことを許してくれない、わたしはみんなに嫌われて当然……そう考えているのは、アルフィーただ一人なのである。

これは、アルフィー他者を信頼できていない証拠である。

 

アルフィーは、「いまのわたし」が「不幸」である言い訳に、「過去のトラウマ」を引っ張りだしてきているだけなのである。

 

しかし、モンスターもニンゲンも、過去のトラウマに縛られるほど、脆弱な生き物ではない。

 

 

⑤「変わりたい」と願うようになったアルフィー

アルフィーは、デートの前に、「もっといい『わたし』になりたい」とすでに考え始めるようになっている

アドラー心理学は、他者を変える心理学ではない。自分自身が強い決意を持ち、新しい自分に変わるための心理学なのである。

すべてを変えるのは「自分自身」なのである。

 

なぜ、(この時点ではその思いが感覚的なものにせよ、)もっといい自分になろうと思えるようになったのだろうか? 

主人公とのやりとりで、「じしんがわいてきた」からだろうか?

まったくじしんが湧いていなさそうな顔である(嘘をついている?)

しかし、このやりとりの全ては「お芝居」であり、「嘘をつき続けている」彼女が、自分を変わる決心をすることができたとは思いにくい。

 

そこで、筆者は、彼女の決心を「メタトンとの関係」に見たいと思う。

 

このままの自分では大切なひとを信頼できないまま過ぎてしまうかもしれないことを感じ取ったからかもしれない、ということだ。

このあと、アルフィーはメタトンが生きていて、心底安心する。それは、メタトンが彼女に対してどういう態度をとるにせよ、メタトンという存在は彼女にとって限りなく大事な存在であると再認識させる発端だっただろう。

 

メタトンが彼女に対してどういう態度であろうと、彼女の心はメタトンのことが好きなのであり、それはひとつの愛の形である(恋愛感情という意味ではない)。もしそれを彼女が身をもって実感したのなら、彼女の対人関係の在り方はこのままでいいわけがない。(なぜなら、この時点での彼女のメタトンとのあり方は「信頼」関係ではないのだから。)

 

彼女は自分を変えるケツイを持たなければならないのである。

 

 

そして、前述のとおり、彼女はデートの直前には、そのケツイを持ち始めている。

ここでは、前者を選ぶと真実を打ち明けることを、後者を選ぶと嘘をつきとおすことをそれぞれ否定する。


彼女自身も「このままではいけない」「変わりたい」と願っている
しかし、その「ゆうき」がもてずにいるのである。

アドラー心理学とは、勇気の心理学である。

ここで彼女に必要なのは、くじかれた勇気をとりもどすための、他者からの「勇気づけ」である。彼女はすでに「変わりたい」という決心を抱いているのだから、あとはくじかれた「勇気」さえ取り戻せば、彼女は変わることができるのだ。

 

 

アルフィーとのデート:勇気づけ、そして「共同体感覚」への呼びかけ

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」のサイクルが成立せず、「共同体感覚」を得られないアルフィーは、生存本能的な恐怖である「孤独」から手っ取り早く抜け出すために「他者からの承認」を必要とする

すなわち、誰からも好かれる自分を演じるということである。

 

彼女には嫌われる勇気がない。とにかくとことん、他者から嫌われることを恐れるのである。

そして、そんな彼女の生き方には「自由」がない。「自由」がないと人の心は弱っていく。アルフィーも、毎日が怖くて怖くて仕方がなくなる。

彼女には自由が必要である。そのためには、彼女の対人関係のライフスタイルを一新させなければならないだろう……というのが、ここまでのまとめである。

 

さて、ここで、彼女のライフスタイルをよりよくする第一歩を考えたい。

 

アドラー心理学の「対人関係の入り口」とは、それすなわち「課題の分離」である。

 

 独善的にかまえるのでもなければ、開き直るのでもありません。ただ課題を分離するのです。あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。
 嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

対人関係は、課題を分離したところで終わるものではありません。むしろ課題を分離することは、対人関係の出発点です。(引用:同著)

(ちなみにゴールは「共同体感覚」)

 

そして、彼女にはそれを教えてくれる最適な人物が存在する。

主人公とのデートで、課題の分離をもっともよく分かっていた人物――アンダインである。

 

主人公は、アルフィー自身がまずアンダインに自分の嘘を打ち明けるための、ほんの少しの勇気づけをしたのだと思われる。

 

ロールプレイという「援助」によって。

 

 

 介入とは、こうした他者の課題に土足で踏み込み、「勉強しなさい」とか「あの大学を受けなさい」と指示することです。
 一方の援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。勉強は子どもの課題である、と理解した上で、できることを考える。具体的には、勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に向かっていけるように働きかけるのです。
(中略)

 こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

あのロールプレイは、アルフィー「自分は他者に自分の罪を打ち明けることができるのだ」と自信を持たせる行為に違いないだろう。

主人公が、アルフィーの代わりにアンダインに伝える(=介入する)のではなくアルフィー自身がそれを行うことができるように援助する「勇気づけ」を行ったのだ。

 

そしてとうとうアルフィーは、アンダインに「ありのままのじぶん」を打ち明けることに成功する。

そこで返ってきたアンダインの答えは、アルフィーにとっては目から鱗だったであろう。

自分の主観世界から見えていた「オタクはダサい→だから私は嫌われる」という原因論に基づく彼女の心情を真っ向から否定されたのだから。

 

アルフィーがどう思おうが、アンダインがどう思うかはアンダインの自由である。対人関係の入り口は、いつだってそこ(課題の分離)なのだ。相手が何を考えているのか、究極的には分かることはできない。だから、自分が何かすることに対して、相手が何を思うか、それはすべて自分ではどうにもならないことなのだ。勝手な憶測をつけることすら、ある意味おこがましいともいえる。

 

そして、アンダインも彼女への援助(勇気づけ)を申し出る。

 

彼女はこうして、課題の分離の考え方の第一歩に踏み出すことができたのだと筆者は感じている。あとは、優越コンプレックスに繋がる、彼女自身が抱える大きな「承認欲求」だが……

 

 

それはパピルスから「自己受容」の姿勢を学ぶことができれば、脱却できるであろう。

 

先にみたとおり、「共同体感覚」とは「自己受容」→「他者信頼」→「他者貢献」のサイクルである(※詳細は【第二回】を参照されたし)。「課題の分離」という対人関係の入り口に立ち、「自己受容」を学ぶことができれば、彼女は必然的に「他者信頼」「他者貢献」もできるようになるだろう。

 

彼女が、彼女自身が選び取った「不幸」から脱却するには、パピルスとアンダイン、どちらの存在も欠かせない。だから、彼女は不殺Nルートの先でしか、デートをすることができないのである(誰かを殺してしまったら、アンダインと主人公との友達関係は破綻するのだから)。

 

そしてもし、彼女が変わる決心をするきっかけが「メタトンとの関係を修復したい」なのだとすれば、彼女はメタトンなしでは変わることができないことになる。

 

メタトンとアンダイン、そのどちらが欠けても、彼女は「とりかえしのつかないにげかた」をしてしまうのである。

(※ただひとつ、G未遂のルートを覗いては。ここに関しては、別の記事でGルートの考察とともに見ていきたい。)

 

 

 

⑦変わることができたアルフィー:しんじつのラボへ

彼女が変わることができたことは、先に見せたロストソウル戦の「みんな わたしの なかまだよ! わたしも みんなが だいすきだよ!」というセリフにもよく表れているが、しんじつのラボに導いている時点で、彼女は自分自身が変わる(または、その一歩を踏み出す)ことに成功しているとみえる。

彼女がまず口にしたのは(※ただしくは文字に示したのは)、「感謝」である。

アドラー心理学では「称賛」を否定する。他者を褒めることは、他者を下に見る「縦の関係」の考え方であり、他者を自分の価値観の中に置くことだ。相手の承認欲求を強めてしまう効果を持つ。

アドラー心理学では「褒める」かわりに「ありがとう」を伝えることを推奨する。「ありのままのその人」がしてくれたこと、いてくれることに「感謝をする」のである。これは、他者を自分の価値観の中に置かない、他者を同等に見る「横の関係」の考え方である。

デート以降のアルフィーはたびたび「ゆうき」という言葉を用いる。

そして、「あらためてみとめるのはゆうきがいるけど」と勇気を語ったうえで、「あらためてみとめる」ことができているのである。すなわち、彼女は「勇気」を身につけている。

 

 

そして、「課題」は、「自分自身で解決するものだ」という認識を強めている

 

すなわち、ここでのアルフィーは、他者の言った方法にしたがって課題を解決するのではなく、他者に責任転嫁のできない条件で、自分自身の良心のみで課題に立ち向かおうとしているのである。

 

他者が「打ち明けた方がいいから打ち明けろ」というのに「従う」のは、自分の人生を他者にあずけ、「あなたが打ち明けろって言ったから打ち明けたのに、失敗した、どうしてくれるんだ」と他者に責任転嫁をする言い訳をする生き方である。

 

そうではなく、彼女は自分の意志で自分の問題に向き合い、自分の力で課題を解決しようとしているのである。

彼女は、「自分には課題を解決する能力がある」と、分自身をじる(=自信を持つ)ことができるようになったのである。

 

これは、彼女が勇気を持った何よりの証拠である。

 

そして、彼女は「他者に合わせる」のではなく、「自分を信じて、自分の良心に従って行動する」決心をしているのである。他者の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きる。それは自由であり、幸福への第一歩である。

もちろん、その行為によってつらく苦しい思いをすることはあるだろう。「ありのままのじぶん」が傷つくことは「うそいつわりの自分」が傷つくよりずっとつらい。しかし、「ありのままの自分」が「ここにいていいんだ」という所属感を持てたとき、そのときの幸福は「うそいつわりの自分」が他者に認められる幸福よりもずっと大きいはずだ。

そして、ひとは誰しも失敗をする。ひとは失敗からしか学べない。自分が自分らしく行動して失敗したなら、「次はこうしよう」と新しい学びを得ることができる。

それが、「そのひとらしい生き方」なのだ。

 

 

 

 

アルフィーが、彼女自身が望む「いいモンスター」になれたかどうかは、読者の方々は、そしてUNDERTALEを愛するすべてのプレイヤーは、もうじゅうぶん、理解していることだろう。

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【番外編:人物考察①トリエル編】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇番外編:人物考察①トリエル編

第五回まで、Pルートの軌跡をたどってきた。次なる考察は"Genocide Route"(通称Gルート)といきたいところだが、その前にPルートで考察を省略した主要登場人物たちの考察を進めておきたい。ということで、今回はトリエルの話をしようと思う。

 

【人物考察:トリエル編】

トリエルについては、【第一回】でも少々述べたが、典型的な「母親」のアナロジーであるように思う。以下は、【第一回】の考察からの引用である。

 

「トリエル」がいる間、主人公はバトルさえも必要ない。傷ついても、全て回復してくれる。主人公を庇護する保護者であり、無償の愛をくれる存在、まさに「母親」である。

常に主人公を見守り続けているトリエル

主人公は「いせき」の内部において、トリエルに「守られている」のである。

 

さて、「母親」であるトリエルにとって、主人公は「こども」である。しかも、ただのこどもではなく「彼女のこども」なのである。UNDERTALEの英語原文では彼女は主人公を「my child」と呼び非公式訳では「我が子」と訳されている

 

さて、親とは本来子どもの「自立」を願わなければならない存在である。しかし、どの親も、本来の意味で子ども自立に向かう行動を実践するのは厳しいことである。なぜならば、親は子に期待をかけるし、親は子の庇護者であるぶん、自分の目の届かない行動をされることは困ることだからである。

 

親が子どもにしがちな行動……それは「課題の介入」である。

 

時に子どもが、大人から見て無謀に見える相談をしたとき、それに対して許可を下さない親……時に子どもが、自分の意に沿わない提案をしたとき、そんなことをしてはダメ、と唱える親……世間一般には、そんな親たちは数多くいることだろう。

 

しかし、アドラー心理学的な「課題の分離」の考え方でいえば、この「課題の介入」は、他者の心に土足で踏み込み、その信頼をなくし、勇気をくじく危険な行為なのである。アドラー心理学でいう「課題」とは、その行動によって最終的に誰が責任を負うか、その責任を負う本人がその「課題」の持ち主なのだと説く。

 

子どもは、大人ほど知識も経験もない。ゆえにとれる責任も少ない。だが、だからといって彼らは大人より「下の存在」ではない。アドラー心理学的見地からいえば、すべての人間は「同じではないけれど平等」であり、子どもであろうが親であろうがそこに変わりはない。もし、子どもの自由を親が奪ってしまったのならば、それは「人間を平等として見ていない態度」と変わりがない。

 

子どもがした行動について最終的に責任を負うのは親ではなく、子ども自身なのだ(たとえば、子どもが勉強をしないことで将来困るのは親ではなく、子ども自身である)。そうであれば、「親」は「子ども」の課題に介入すべきではない

 

しかしながら、親はどうしても、子どもに対して過剰にその自由と自立を奪う瞬間が存在する。そしてその時、その言い訳として持ち出される言葉は何であろうか。

 

「それはあなたのためなのよ」「あなたのことを思って言ってるのよ」である。

 

しかし、これらの言葉は、本来こどもの自由なる自立を阻害する「課題の介入」なのである。(※むろん、子どもに対して放任主義であれという意味ではない。アドラー心理学では、もし子どもが危険なこと、悪いことをしようとしているとき、親は「ダメ」と叱りつけるのではなく、「それがいかに危険なこと(悪いこと)なのか丁寧に教えたうえで子ども自身に判断させることが良い」と考えているように筆者はとらえている)

 

たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的――それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません――を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

さて、上記の「あなたのため……」という言葉であるが、UNDERTALEをくまなくプレイしている読者の方々なら、その文字列に見覚えがあると思う。

 

そう、トリエルを「ぶんせき」したときに見えるテキストなのである。

「これは あなたを まもるため」

実際にトリエルは主人公を「死」の危険から守りたいのであろう。しかし、主人公が「死ぬ」と決めつけて、本人の意思を尊重せず、「my child」がアズゴアから殺されることを辛く感じ、その苦しみから逃れたいのはトリエル自身の課題なのである。

 

つまり、トリエルは「my child(我が子)」に対する「課題の介入」をしていたじんぶつだった、ということができよう。

それは「トリエルの願い」であって、主人公の願いではない。

そして、そんな彼女にはどんな「こうどう」も通用しなかった話し合いすら何の解決手段にもならない。親と子どもは時にそんな関係になることはある。親に望まれない結婚をするとき、離縁することになるのは、まさに親の子どもへの介入によっておきるのである。

 

さて、「課題の介入」についてのアドラー心理学の視点はこうである。

「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」

 

すなわち、ここでは主人公がトリエルの苦しみをなんとかすることはできないのであり、同時にトリエルはその苦しみを逃れるために子どもを操作しようとしてはいけないのである。

トリエルを「こうげき」しない。トリエルに対して「こうどう」もしない。そして、「逃げる」わけにもいかない

 

たとえそれで、トリエル(母親)と縁を切ってしまうことになっても、自分の自由にすること。それが「自立」なのである。

 

恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。…(中略)…ところが、親子関係では原則としてそれができない。恋愛が赤い意図で結ばれた関係だとするならば、親子は頑丈な鎖でつながれた関係です。しかも自分の手には、小さなハサミしかない。親子関係のむずかしさはここにあります。

(中略)

いまの段階でいえるのは、逃げてはならない、ということです。それほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

これは『嫌われる勇気』からの引用であるが、まさにトリエル戦そのものといっても過言ではない。

自分自身の「自立」のためには、「このまま」でいてはいけない。逃げてはいけない。しかし、「はなす」ことは、トリエルには意味がない。話し合いでは解決できない問題なのである。

 

だから、主人公はトリエルと延々と「向き合う」必要があった。ただただひたすら、逃げもせず、だからといって自分を相手に合わせることもしない。

そして、もしこれが不殺の道ではないのなら、主人公はトリエルとは一生分かり合えない選択をすることになる(トリエルをころしてしまうことになる)。

不殺、Pルートでは、話し合いもできない彼女と向き合い続け、「たたかいたくない」という意思をひたすら表明しつづけたのである。

 

結果、トリエルとの関係はどうなってしまうかといえば、「絶縁」となってしまう。たとえ停戦に成功しても、彼女にはもう二度と、電話すらすることができない。

(※たとえ停戦できても、彼女は「いちど このとびらの そとに でたら… にどと ここへは もどらないこと」と発言し、以降は電話に一切出ない。)

 

アドラー心理学を用いれば対人関係がすべてうまくいくわけではない。それが対人関係である以上、その関係が終わってしまうこともある。そして、その別れがつらく苦しいものであることもある。それは時に、強い心の痛み(Heartache)を伴うこともある。

しかし、「たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う」、それが親子関係には必要なことなのだ。

 

ただし、ここでもしトリエルと停戦できれば、トリエルには一つ大きな変化がうまれる。

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それがたとえ「絶縁」という形であっても、彼女は「怒り」に支配されることなく、主人公の意思を(直後寝るとアズゴアのセリフが聞けることから、「ケツイを」と言ってもよいかもしれない)尊重することができたのである。

「わたしののぞみも…さみしいきもちも…しんぱいも…」それらはすべて、「トリエルの課題」なのである。決して、主人公に押し付けるべき課題ではない。

 

すなわち、彼女はこの時において「課題の分離」をしようと努力をしているのである。

 

Nルートでは、彼女とは永遠に「絶縁」状態のままだ。しかし、このことはPルートで彼女のこころに大きな変化をもたらしている。

彼女は心の底から、「わが子(my child)の自立を願うことができた」のだ。

「自分の未来は自分で決める」――それは、アドラー心理学における、課題の介入と真逆の行い、すなわち「勇気づけ」である。

「それは自分できめていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料――たとえば知識や経験――があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

トリエルはまさに典型的な「母親」としてのキャラクターづけであったのだろう。

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第五回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第五回 モンスターと自分に「共同体感覚」を―自立への軌跡―

"True Pacifist Route"(以下Pルート)は、主人公が新しい価値観を身につけ、「自立」していく物語だと述べてきた。

今回は、実際のアズリエル戦を考察し、その最終章としたいと思う。

 

共同体感覚とは

今一度、「共同体感覚」についてまとめておきたいと思う。

 

もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

(中略)

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

「共同体感覚」とは他者を仲間だとみなしそこに「自分の居場所がある」と感じられることだとある。

しかし、ここでいう「共同体」とは、身近な種族だけに留まらず、過去から未来の時間における、動植物、無生物、果てには宇宙まですべて含む、というのが、アドラーが思い描く「共同体」である。

 

アドラーは、『共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)』というドイツ語を英語圏に伝える際に、"social interest"という言葉を用いた。すなわち「社会への関心」、「他者への関心」である。これは、Pルートを歩むなかで、主人公(をつき動かすプレイヤー)がおこなってきた「こうどう」そのものである。

 

そしてまた、主人公に「こうどう」「デート」を行われたモンスターが、主人公から「関心を寄せられる」ことによって、身につけてきた感覚ともいえるだろう。(詳細は【第四回】参照)

 

さて、最後にもうひとり、「共同体感覚」を知ってもらわなければならない人物がいる。それこそが、この世は「ころすかころされるか」すなわち、「世界は自分の敵だ」と信じている、フラウィ、ひいてはアズリエル・ドリーマーである。

 

 

アズリエル戦:モンスターのタマシイがひとつに――「共同体感覚」――

Pルートの最終戦にて、フラウィ(アズリエル)が一番恐れていることは「主人公の存在を失うこと」

第二回】にて書いた通り、人間は(この場合はモンスターだが)、その生存本能として他者から存在を容認してもらいたいというものがある。人はだれしも孤独を恐れ、孤独の不安感と戦っている存在なのだ

フラウィは、この物語の中で唯一「ケツイ」を持ったモンスターである。彼は「はな」であり、「モンスター」ではない(だからケツイを抱いても溶けずに存在できる)。そんな彼は、この世界では「みんなとは違う」のであり、「孤独」なのである。「孤独」な彼は、とうぜん「同じ仲間」からの承認が欲しい。しかし、彼の価値観はこの世は「ころすかころされるか」。すなわち、他者は敵なのだ

 

そんな彼が、(ケツイを抱くことのできる存在として)「同じ仲間」である「主人公」と結びつくためにとった行動は「憎悪による繋がり」なのである。(【第二回】「問題行動の5段階」参照)

彼の目的は「せかいをほろぼす」ことではない。憎悪による「つながり」だ。

彼はどうしてこのようなライフスタイルを選択してしまったのだろうか。
もちろん、一つには、彼が「おはな」になってしまったために「タマシイ」がなく、「感情」のないまま長い時を過ごして来たというのもあるだろう。しかし、一番の契機となった出来事は、「キャラ」と「共同体」になった時の事件からだろう。

 

このときに、彼は「他者は敵」というライフスタイルを自ら選択したのだ。
これ以上「傷つかない」ために。

彼は、「ありのままの彼らしい自分」のこうどうを、多くのニンゲンに汚された。その自分がこれ以上傷つかないために、「他者は敵」というライフスタイルを選択しやすい状況にあった

あるいは、彼の中に「キャラ」の「タマシイ」があったことも、大きな要因だったかもしれない。

 

「他者は敵」というライフスタイルでは、「他者貢献」の発想は生まれない。他者の承認を絶えず必要とするために、それまでのアルフィーと同じで、絶えざる不安にさいなまれる。「ここにいてもいいのだ」という所属感を得ることができないのだ。

 

すなわち、彼の今の苦しみとは、「孤独」そのもの(あるいは、それに伴う不安感)なのである

 

そして、それを救うためにアドラー心理学が何を唱えているかといえば「共同体感覚」なのである

われわれは共同体の一員として、そこに所属しています。共同体のなかに自分の居場所があると感じられること、「ここにいてもいいのだ」と感じられること、つまり所属感を持っていること、これは人間の基本的な欲求です。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

そこに自分の居場所がないと思うことを「孤独」の定義だとするならば(宇宙にただひとり「わたし」しかいない状態では、「孤独」という概念すら生まれないであろう)、彼が得たいものはその逆、すなわち「共同体感覚」なのである

 

それを、彼に呼び覚ましてあげるのが、まずはPルートで必要不可欠なことだといえよう。

 

①こころに「ゆめ」と「きぼう」を~絶望から希望へ~

Pルート戦の「こうどう」「ゆめ」と「きぼう」を抱き続けることだ。

アドラー心理学の考えでいえば、「人は誰でも変わりたいと思ったその瞬間から変わることができる」

アズリエルがもし「憎悪」の感情で主人公と繋がりたいという「復讐」の段階まで落ちているのだとすれば(※詳細は【第二回 】参照)、その先に彼に待っているものは「絶望」そして「無能の証明」ということになる。

 

しかし、この物語では、彼もまた「自立」し、「絶望」から救われ、「共同体感覚」を掘り起こしてもらわなければならないすべてのモンスターに「共同体感覚」がなければ、その先のPルートで「ニンゲン」と「モンスター」の共生は実現しないからだ。(※詳細は後述。)

 

そのための主人公の行動は「ゆめ」と「きぼう」を、自分自身が抱き続けることなのだ。「ゆめ」と「きぼう」は、ゲーム内で物語の主人公……「勇者」すなわち「勇気ある存在」が抱き続けるものだ。どのゲームでも、基本的にはそうであるように思う。

 

アドラー心理学では、相手にプラスのエネルギーを与え続けること、相手を能動的に自立へ導く行為を「勇気づけ」と呼んでいる。

そして、「勇気づけ」は、自身に「勇気」がある者にしかできないと言われている。

まずは主人公が「勇気」を持たなければならない。すなわち、彼に届けるべき「ゆめ」と「きぼう」を、主人公が抱き続けなければならないのだ。

 

また、「きぼう」とは、モンスターがもともと持っているタマシイの形のひとつでもある。

「あい」「きぼう」「おもいやり」……モンスターは、そのタマシイのなかに「共同体感覚」を内在している

主人公は「勇気づけ」によって、彼の「共同体感覚」に「共鳴(きょうめい)」するのだ。

 

 

②ロストソウル戦~彼のうちなるタマシイの「共同体感覚」の叫び~

ロストソウルとはそもそも何だろうか? 「ソウルレス」と言葉は違うのでよくよく解釈しなければならないが、「ロスト(lost)」とは「失われた」ことであり、「ソウル(Soul)」とは日本語訳の「タマシイ」のことである。また、"lost"とは"lose(負ける)"の過去形でもある。

 

彼らがもしこれまでのタマシイを失ってしまっているのだとしたら……または、アズリエルのタマシイの力に負けてしまっているのだとしたら、アズリエルにとりこまれた主人公の「ともだち」たちは、「他者は敵」という価値観、すなわち「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」のない価値観に再び染まってしまっている。

 

ロストソウル戦は、そのみんなの「タマシイ」を救い出す(=SAVE、復活させる=彼らに「共同体感覚」を取り戻す)行為だ。

「ニンゲンをつかまえて他人に評価されること」より自分の意思を尊重したパピルス「ありのままの自分」でも、友達はつくれるのだ。

ニンゲンですらも、自らの敵ではないということをアンダインに思い出してもらう。

「他者は味方」という考え方によって生き方を変えたアルフィーの大事な決断を、取り戻す。

 

そして……

主人公の未来を一時的に奪っていた(「これはあなたのため」と言い張り、「課題の介入」をしていた※詳細は別で考察予定トリエルは、主人公の「自立」を心から望むようになっている

 

これらの「タマシイ」は、おそらくアズリエルの体内でアズリエルに「共同体感覚」を伝えたものだと思われる。

 

③アズリエルの「孤独」からの脱却

アズリエルとの戦闘中、彼は「孤独」を感じさせる言動を何度もする。

誰の記憶にも残らない=孤独である。主人公に「孤独」を味わせたい?

これらのセリフを見る限り、彼は主人公と「孤独」を共有したいのであり、彼は「孤独」という「不安」に押しつぶされそうなのである。それは、記事の冒頭で書いたフラウィのセリフからも見て取れるとおりである。

 

彼はこれまで「はな」として生きてきた。ゲーム内で言及されるとおり、「はな」には「タマシイ」がない。彼はそれを「だから何も感じることができない」と表現しているが、彼はすなわち「モンスター」ではないのだ。「モンスター」でなければ、「ニンゲン」ですらない

 

詳しくはこの先行う予定のGルート考察で述べたいと思うが、Gルートのヒューマン(キャラ)は、他モンスターたちから「ニンゲンですらない」という扱いを受ける。だからこそ、フラウィはそのじんぶつに共感を寄せるのだ。「ばけもの」として孤独を共有できる唯一の存在だからである。

 

ちじょうへ行ったときのエピソードから「他者は敵」「このせかいはころすかころされるか」というライフスタイルを選択してしまった彼は、「タマシイのないはな」を脱却しても依然、「孤独」から抜け出すことができなかった

 

しかしアズリエルとなった彼には今「タマシイ」がある。「タマシイ」があれば、他者と感情を共有し、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じる」ことができる。すなわち、自身の手で共同体感覚を掘り起こすことができるのである。

 

ここまで、主人公はその手助けをした。「ゆめ」と「きぼう」を抱き続けその「勇気」をアズリエルに、アズリエルの中のロストソウルたちに伝染させていった。そして「勇気づけ」られたアズリエルは、その手で「共同体感覚」をつかむことができるのである。

それこそが「共同体感覚」ではないだろうか。

 

 

フリスクとしての自立

Pルートを迎えると、主人公は「わたし」ではなく「フリスク」であったことがわかる。

すなわち、この主人公は「わたし」から脱却したのである。

自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。(中略)だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocial interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

「わたし」からの脱却、それはすなわち「究極の自己中心性からの脱却」、つまり「自立」である

 

自分では歩くこともままならず(プレイヤーのケツイを注入されなければ動くこともできなかった)、ニンゲンなのにも関わらずHPが切れたらすぐにタマシイが壊れていたこの主人公は……

いつのまにかプレイヤーの意志をこえてタマシイを持続させる力を持ち……

そして「フリスク」の名前を持ち、プレイヤーのあずかり知らぬ世界へ自ら歩を進めていく

こうして、アンダーテールのPルートの物語は終焉を迎えるのである。

 

さて、もしこの主人公が「勇気」を持ち、ちじょうへと繰り出していったのなら、このニンゲン(フリスクと、そしてそのともだちであるモンスターのみんなの「勇気」は、多くのニンゲンの心を動かすかもしれない

 

筆者が大好きなアドラーの言葉に、以下のようなものがある。

「あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」

 

ニンゲンの世界にはもちろん、協力的ではない人もたくさんいるだろう。

しかし、フリスク勇気が、そしてフリスクのともだちのモンスターのみんなの勇気が周りのみんなに伝わっていく限り……

「モンスター」と「ニンゲン」の未来は明るい。筆者はそう考えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

……もしも、我々が「ほんとうのリセット」を行い、Gルートに歩を進めない限りは。

 

 

 

 

 

番外編:バガパンの「貢献感」?

ここまで、Pルートはフリスクが自立するための物語であり、Pルートでモンスターとニンゲンが共存するためには自他ともに「共同体感覚」が必要だということを述べてきた。

さて、「共同体感覚」には「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」が欠かせないということはこれまでの話に何度も見てきた。人間の幸せとは「ここにいていいんだ」と実感が持てることであり、そのためには「誰かの役に立てている」と「感じる」、すなわち「貢献感」を持つことが重要なのだというのがアドラー心理学的な考え方だ。

 

次に、いくつか『嫌われる勇気』からの言葉を引用する。

人は「私は共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。

共同体、つまり他者に働きかけ「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。いままで議論してきた「共同体感覚」や「勇気づけ」の話も、すべてはここにつながります。

すべての人間は、幸福になることができます。しかし、これは「すべての人間は幸福である」ではないことは、理解しておかねばなりません。行為のレベルであれ、あるいは存在のレベルであれ、自分は誰かの役に立っていると「感じる」こと、つまり貢献感が必要なのです。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

また、Twitterからの以下の引用も参照されたい。

 

さて、本考察では「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」からもっとも遠いキャラクターとしてアルフィーを挙げたが、実はそこからほど遠いじんぶつがもうひとキャラクター存在する

 

バーガーパンツである。

※2枚目のこの画像はPルートでのセリフではあるが……これが「これまでの」彼の考え方の根本なのだろう。彼は自分がキズつかないために「人生の嘘」をつき続けていたのである。

キャッティたちとのデートを取り次いでみると分かるが、彼は「なにもかも彼女たちのせいにするのをやめろって?」というようなセリフを口にする。

彼の生き方は「責任転嫁」の生き方であり、典型的な「劣等コンプレックス」を抱えた生き方である。(※「劣等コンプレックス」については【第二回】参照)

 

そのバーガーパンツが、Pルート後にどんな発言をしているか注目されたい。

「貢献」とは、実際にそうであるかではなく、本人がそうじていればよいものである。

この発言はまさに彼が「貢献感」を抱いていることの証明ではないだろうか。

 

彼はアズリエルの中でモンスターたちと思いをともにすることで「共同体感覚」を掘り起こすことができたことにより、「貢献感」を持てるようになったのではないだろうか? というのが、本記者の見解である。

 

そんな彼が、Pルートのメタトンバンドで大成できるかどうかは彼次第であるが、もしもこの感覚により、彼自身の「自己中心性」と「劣等コンプレックス」から脱却できるのであれば……彼はきっと、彼らしいじんせいを歩むことができるだろう。

 

 

 

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第四回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、イ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第四回 Pルートへの軌跡 

 

 第一回】【第三回】にて、UNDERTALEは「無能の証明」まで落ち込んだニンゲンを「自立」に向かわせる物語なのではないか、ということを述べた。

そこで今回は、"True Pacifist Route"(以下Pルート)を歩むことによって、主人公(あるいは我々プレイヤー)が何を学び、どのように「自立」していくのかを考えていきたいと思う。

 

さて、「いせき」が我々プレイヤーと、主人公の「価値観」を転換させる場所だというのは、【第一回】で触れた通りである。

Pルートの道のりでは、いせきを出たあと、不殺の"Normal"ルート(不殺Nルート)を経て、パピルス、アンダイン、アルフィーとのデートを行うことになる。その果てにどのように「自立」へと繋がっていくのだろうか。

アドラー心理学の用語が多く出てくるため、【第二回】の内容も参照されたし。

 

「こうどう」による停戦と「たたかいたくない」意思表示

UNDERTALEの停戦方法は、大きくふたつ。
相手を傷つけてから「にげる」方法と、相手に合わせた行動をとって「にがす」方法だ。
どちらも、「みのがす」というコマンドの中に含まれるが……。
UNDERTALEがどちらを推奨しているかは、ゲームのエンディングを見ると分かる。

ここではテミーのみ、完全和解の行動をしていないので白文字表記になっている。

Pルートのエンディングで、完全に和解したモンスターの名前と説明は黄色表記に変わる。これは「にげる」、もしくはそのモンスターが一番望む形ではない形で停戦した場合には起こらない現象であり、完全にモンスターと仲良くなるには「にがす」の方を選択する必要があることを示唆している。

 

「にがす」とは、「たたかいたくない」という意思表明であることは、「いせき」のフロギーが説明している。

さて、この「たたかいたくない」を成功させるには、そのモンスターに合わせた行動をとらなければならない

ナキムシャやチビカビなどの一部モンスターをのぞいて、ほとんどのモンスターは「こうどう」なしには「にがす」ことができない

 

さて、ここで「こうどう」が何を意味するかを考えてみたいと思う。

 

アドラー心理学では、目的論に基づき、「我々が生き方を変えたいと思ったら、ライフスタイルを選択しなおせばよい。ライフスタイルは"行動"の集大成であるから、生き方を変えたいならば"行動"を変えればよい」ということを考える。

 

そしてまた、同じくアドラー心理学では、他者信頼、共同体感覚の考えに基づき、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」を推奨する。

 

共同体感覚についてアドラーは、好んでこのような表現を使いました。われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

そうして、「相手への関心事」へ関心を寄せたとき……すなわち、共感を持ったとき、共感を持ってもらえた相手は、自分を尊敬(尊敬とは、相手を「ありのままに見る」ということ)してもらえたことで、「勇気」が持てるのだという。

 

主人公が「こうどう」で示すのは、まさにこの「相手への共感」「相手への関心事に関心を向ける」行いではないだろうか?

なでて欲しいイヌにはたくさんの「ナデナデ」をあげ……歌を歌いたい相手には、一緒に歌って……筋肉が好きな相手には一緒に筋肉をぴくぴくさせ合い……そうした、そのモンスターの関心事に一番適切な「こうどう」を起こした果てに、「にがす(たたかいたくないという自分の訴え)」を成功させることができ、そうしてはじめて、モンスターたちとの「完全和解」(Pルートエンディングにて、文字が黄色くなる停戦)が成立する。


モンスターたちも共感を寄せてくれた主人公に対して共感を持ち、主人公とモンスターはお互いを、同じひとつの存在として受け入れていくことができる

からかってほしくないルークスには、「からかわない」こうどうを。

そして、そうした行動の果てに、ニンゲンとモンスターが共存できる可能性の大きいPルートが成立するのである。

 

マザー・テレサは「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われ、こう答えました。「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」。アドラーの共同体感覚も同じです。世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

すなわち、このゲームの「こうどう」経験から主人公(またはプレイヤー)が得るものは「共同体感覚」である

 

自分のうちなる「共同体感覚」が掘り起こされれば、この主人公は「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」ができるようになる。「他者信頼」できるということはすなわち、「他者(このゲームにおけるモンスター)は敵」ではなく「他者は味方」という認知に立てるということでもある。

 

「他者は味方」と思えている主人公になれるからこそ、「ありのままの不格好な自分でも受容できる」のであり、「他者のために何かをしようと考える」のである。

そうして「わたし」ではなく「共同体(わたしたち)」が主語になったとき……人は「自立」できるようになるというのが、アドラー心理学の考え方である。

 

われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は「わたしたち」に変わります。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。(中略)だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocial interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。(引用:同著)

 

さて、ここで今一度考えたいことは……

Pルートを歩む主人公は、我々のつけた名前ではなくフリスクだという点である。

これはまさに、「わたし」から脱却した、ということの示唆ではないだろうか?

 

すなわち、フリスクは旧来のライフスタイルを選択していた我々(あるいは我々が着せるRPGの主人公像)から脱却し、新しいライフスタイルを勝ち取って自立をした、ということになるのである。

 

さてしかし、主人公がフリスクとして自立をするために必要な条件がいくつか存在する。それは、主要登場人物とのデートである。

では、なぜ、それらのデートが必要になるのであろうか? 

 

それは、アズリエルを救うためである。

 

アズリエルは、キャラとの共謀に失敗(?)したあと、"きんいろのはな"となり、「このせかいはころすかころされるか」という、「他者は敵」の認知に塗り替えられてしまったそんな彼を救うために必要な要素とは何か?

「共同体感覚」である。

 

彼に「共同体感覚」を味わってもらうためには、彼が吸収するモンスターたちに「共同体感覚」が必要になる。そのために、主要登場人物には、「共同体感覚」を持っていてもらわなければならないのだ。

 

 

パピルスとのデート~承認欲求からの脱却:「自己受容」~

パピルスというキャラクターは、とても優しく思いやりがあるモンスターである。他者を信頼していて、他者が裏切るかもしれないということなど、考えていないかのようだ。

それゆえにアンダインからも心配されている。

その点、彼はとても「他者信頼」できているように見える。しかし……。

 

「あこがれのロイヤル・ガードになったら」にんきものになれると思っている。

彼は実は「ありのままの自分」に自信がない。「ありのままの自分」ではともだちができないと思っている。

だからあこがれのロイヤル・ガードになって、アンダインからほめられてはじめて、にんきものになってみんなから「おともだちになって!」と言われると信じているのだ。

アンダインに褒められたいパピルス

パピルスと戦う前にも、興味深いセリフがみえる。

これは「主人公が」という主語でパピルスが発するセリフだが、この思いは実はそのままパピルスが抱いている思いであろう。

つまり、パピルスとは、実は非常に自分に自信がなく、劣等感があり、承認欲求を持っているモンスターであることが分かる。

 

さて、アドラー心理学で承認欲求は否定されるものだということは、【第二回】にて述べてきた。承認欲求とは、他者からの評価を必要とし、自分の人生を生きない証であるからだ。承認欲求を必要とする生き方は「自己受容」ができない人の生き方であり、「自己受容」ができない人は、本当の意味で他者を信頼し、他者貢献をし、「共同体感覚」を得ることができない

「ありのままの自分」を受けいれることができないパピルスは、なんと「自己受容」ができていないということになるのである。

 

そんなパピルスが、主人公とパズル合戦をし、戦いをする中で、何を学んだか?

「ともだちをつくるには、ダメダメなパズルをやらせて、バトルをすればよかった」ということに気付いたのである。

 

ここで、パピルスが、自分の用意したパズルを「ダメダメなパズル」と言っていることに注目したい。

ともだちをつくるには、100点満点のパズルなど必要ない、というのである。

これはまさに「自己受容」の考え方である。

自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのまま受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。

もっとわかりやすくいえば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れたうえで「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

パピルスはそれまで、よく「いだいなるパピルスさま」「マスターシェフ」と自称をしていたかと思う。これこそは「できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかける」「自己肯定」の在り方であり、(劣等コンプレックスの裏返しである)優劣コンプレックスの在り方であるのだ(※詳細は【第二回】参照)。すなわち、彼はそれまで劣等感に縛られて、他者からの承認を必要としていた

 

しかし彼は、この主人公との関わりの中で、「ありのままのじぶん」を認められるようになった。「ありのままのじぶん」でも、ともだちになってくれる人はいると気付けて、「自己肯定」から「自己受容」の発想に移ることができたのである。

 

そして、彼は主人公とのデートで何をしたか……

主人公を「フッた」のである。

相手に合わせ、相手の期待に応えようとするのは「承認」を求める生き方である。

相手に合わせなくても、相手にとって100点満点の正解でいなくても、お互いがお互いを尊重し、ともだちとして一緒にいられることを、彼は学ぶことができたのである。

 

 

 

アンダインとのデート~他者は敵という概念からの脱却:「他者信頼」~

アンダインというキャラクターのイメージを追うと、彼女から「承認欲求」というものはあまり感じない

彼女は誰かに好かれるためにこれをやるとか、誰かに好かれるためにあれをやらないとか、そういうことを考えているキャラクターには見えない。

彼女の愛するアルフィーの作ったおしろでも、彼女は彼女らしく、遠慮なくブッこわす。笑

そういう意味で、彼女はとても自由である。らんぼうで、おうぼうだが、そんな自分では「嫌われてしまう」ということなど考えていないかのようだ。「自己受容」ができているということだろう。

 

すなわち、彼女の行動指針は「誰かに評価されたい」ということではなさそうだ。そして常に「仲間のために」身体を張って頑張れる。そういう点で彼女は「自己受容」ができているうえで、「他者貢献」ができているじんぶつのように見える。

かのじょはじぶんがつらくても、それがだれかのためになっていればいいと考える。

そして、パピルス(部下)が親しく話しかけようが、気を悪くする様子は全くない。パピルスは部下である以上に、彼女にとっては「ともだち」なのだ。彼女は「縦の関係」ではなく「横の関係」すなわち、「同じではないけれど平等」の思想に生きるじんぶつであると考えてもよかろう。

 

アルフィーのともだち」に対して、「ああいうライフスタイルはあこがれる」と言っていることにも注目したい。彼女は「性格」という言葉を使わずに「ライフスタイル」という言葉を選んだというのも気になるところ。

ちなみに、原文でも「lifestyle」という言葉が使われている。

 

さて、その彼女が「共同体感覚」を抱くにあたって足りないものがあるとしたら何だろうか? 強いてあげるなら――「ニンゲンは味方」と思えていないことだろう。

 

「ニンゲンはモンスターをきずつける存在」として「打ち負かさなければならない」「相容れない存在」と、もし彼女がそう信じているのだとしたら、彼女は結局のところ、最終的な「共同体感覚」を得ることができないことになる

 

なにせ、「共同体感覚」とは、「身近な共同体」だけに留まらず、国家や種族も超え、無生物すら超え、宇宙全体を含む「共同体」の一員であると感じる部分までいくのだから。

彼女は主人公の行動を「偽善」ととらえていた。ひとの行動を、その行動通りにとらえられないのは、相手のことを「敵」とみなしているからこそであろう。

その彼女は、デートの中で、「ニンゲンは味方」と信じる第一歩として、「主人公は味方」と思うことができたのである。どうしてそう思うことができたのだろうか?

 

まず、前提として、アンダインという存在が「たたかい」の中に生きる、「たたかい」に関心を持ったモンスターであることを理解していただきたいと思う。

彼女は「ちぎょ」であった時代からずっと、「せいぎのてっつい」ガーソンにあこがれ、アズゴアをうちたおすためにまいにちまいにちトレーニングに明け暮れていたのだ。

 

彼女は「たたかい」が好きなのだし、「たたかい」の中に彼女の道があるということは、今更言及するまでもないことだと思う。

 

さて、アドラー心理学では「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」推奨されることは先に述べたとおりである。


すなわち、(アンダインの認識の中で)もともと敵同士であったはずの主人公とアンダインとの間で、主人公が彼女と親密な関係値を築くためには、彼女の関心事に関心を寄せる……すなわち、自分自身を「たたかい」のフィールドに置かなければならないのである。それも、そのフィールドに立ってなお、「自分はモンスターを傷つける意志はない」と主張しなければ、結局お互いは「敵同士」のままになってしまう。

 

さて、アンダインとのデートで起こったことを、順を追って確認していこう。

 

①「課題の分離」の再認識

アンダインは主人公とのデートで何を発見したか?

筆者は、そのはじめに「課題の分離」の再認識をあげたいと思う。

 

アンダインはデート開始時パピルスの煽りを受け、「主人公とズッともになる」ために、相手に合わせ、相手が気に入りそうな自分をひたすら演じ続けた

 

パピルスとともだちになったときは、りょうりのレッスンがその親密度に大きく関わったという理由から、主人公に自分とりょうりのレッスンをすることを強要した。そして、主人公に自分を好きになるよう強要しようとしたのである。

 

その果てに彼女は再認識する。

自分が相手にいくら好きになってほしいと願ったところで、相手がどう思うか、相手がどうするかは相手の課題である

 

もちろん、彼女が今までそれを分かってなかったとは思わない。彼女がそれまでも自由にふるまえていたのは「課題の分離」ができていたからであろう。しかしここでは改めて「ニンゲンがモンスターをどう思うか、それもまたじぶんにはどうすることもできないこと」ということを認識したのである。

 

すなわち、彼女は「課題の分離」を再認識したのだ。

 

「課題の分離」ができると、人は自由にふるまえるようになる。なぜならば、「わたし」がどうふるまおうが、「あなた」が「わたし」を好きになるか嫌いになるかは、「あなた」の自由な世界なのだから、「わたし」はその責任を負う必要がないからである。

 

②他者の関心事に関心を寄せること

そうして自由になったアンダインは、主人公と「たたかう」道を選んだ。なぜか? 彼女の生きる道が「たたかい」だからである。彼女は「たたかい」が好きだから、主人公との対人関係の在り方にも「たたかい」を選んだのである。

彼女は主人公と「たたかいたい」のだ。

その時、主人公はアンダインから逃げなかった。逃げないかわりに、「たたかうフリ」をしてみせるのである。すなわち、アンダインの関心事に関心を寄せたのである。

そうすることによって、主人公はアンダインの世界に入って行くことができたのではないだろうか。

 

そうやって、主人公は「他者への関心(social interest)」をアンダインに向けた。"social interest"とは元来、アドラーがドイツ語圏の自分の心理学を英語圏に用いる際に「共同体感覚」を翻訳した言葉だ。

 

共同体感覚を呼び覚ます「関心」を向けられたアンダインは、主人公を通して、どんな相手にも共通して結ぶことのできる「共同体感覚」を感じることができたのではないだろうか

そうして、「関心」の絆で結びついた主人公とアンダインは、お互いを「味方」として認知できる礎を築けたはずである。

 

 

③「わたし」は敵ではないという訴え

しかし、もしアンダインを傷つければ、アンダインにとってふたたび「ニンゲンは敵」という認識を与えてしまうことになる。だから主人公は、「たたかうフリ」をした。

「たたかい」というアンダインの関心事の中に身を置きながら、
「わたし」は「あなた」の敵ではない、と訴えかけた。

この結果、アンダインがどういう考えに至ったかは、Pルートのロストソウル戦での彼女のセリフを見ればあきらかであろう。

彼女は、ニンゲンを信頼することができるようになったのである。全員とは言わないが、ニンゲンすべてが敵と考えた彼女にとっては大きな価値観の転換だったのではないだろうか

 

また、さきほどの この画像であるが

これはアンダインとデートした結果の不殺Nルートで観ることができるものだ。

 

主人公とのデートを通して、アンダインはこの価値観にいたることができた……すなわち、彼女はデートによって、たとえ相手がニンゲンでも、そのニンゲンに「貢献」することに喜びを感じられていると考えるのが筋だろう。

 

 

アルフィーとのデート~うちなる共同体感覚を掘り起こすために:「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」~

 

アルフィーとのデートが一番肝になる部分である。彼女が真相を明らかにしなければ、このゲームはPルートに向かうことができないからである。そして、彼女とのデートは、必ず1度目のエンディングではかなわないように設計されている

 

すなわち、このゲーム自体が「Pルートを達成するためには必ずアルフィーとのデートを行い、真相を究明しなければならない」ことを示唆しているのである。

 

アルフィーとのデートがなぜそこまで大事なのかということの中に、私はこのゲーム内のモンスターでもっとも「共同体感覚」から遠い人物アルフィーであることを挙げたいと思う。

 

おおよそアルフィーという登場人物にどんなイメージをもっているだろうか?

自分の研究のために多くの人を不幸にしてしまったという過去のトラウマを他人に打ち明けることができずに、をつき続けなければならなかったじんぶつ

そうではない。

アドラー心理学的見地に立てば、「過去のトラウマなど存在しない」のである

 

彼女がどんな人物かアドラー心理学的見地からとらえるならば、おそらくこうなるであろう。

 

アルフィーとは、劣等感が強く、自分に自信がないあまり、他者からの承認を必要とするじんぶつである。他者からの承認を必要とするあまり、すべての人に忠誠を誓い、「誰からも好かれる自分」を演じる必要があり、自由に行動することができない

いいかえれば嫌われる勇気がないじんぶつ」ということもできよう。

過剰に「きらわれる」ことを恐れるアルフィー

「目的論」に立つならば、彼女にとって、あの研究は必要な出来事だった。なぜならば、あの出来事さえなければ、本当の自分はもっと明るくて、もっとできる人物なんだ、と自分の人生に言い訳できるからである。

自分が他者から好かれないのは、あの事件があるからだ……と自分の人生に言い訳できるのである。

彼女はあの事件があろうがなかろうが、びくびくオドオドとしたじんぶつであっただろう。

 

彼女が嘘をついているのは、周りのみんなに、だけではない。彼女は自分自身に嘘をつき続けているのである。

 

誰からも嫌われないためには、どうすればいいか?(中略)常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。(中略)しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。(中略)これはちょうど(中略)できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん嘘をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。(中略)

他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

彼女は「ありのままの自分」では誰からも好かれないと考えているのだし、他者は自分を傷つける存在だととらえている(「いいこ」でない私は認められないと感じている)のだし、だからこそ自分ばかりに目を向けて、誰かのために一生懸命がんばることから逃げている(見返りがなければ、その人のために頑張ることができない)のだ。

「~してくれなくなった」とは、見返りを求める発想である。
見返りがなければ、彼女はメタトンのために頑張ることができない。

すなわち、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」から最も遠い――「共同体感覚」から最も遠いじんぶつ、なのである。

彼女にとって他者は、「嘘偽りのないありのままのわたし」を傷つける存在。

彼女に必要なのは、「承認欲求からの脱却」であり、「課題の分離」を覚えることである。

 

「承認欲求からの脱却」とは、他者に「いいこ」と価値を認めてもらうことを必要とせず、「ありのままの自分」を自己受容できること

「課題の分離」とは、自分がどうふるまおうと、相手が自分を好きになるか嫌いになるかは相手の課題なのだから、自分にはどうすることもできないと知ること

この対人関係の入り口にたってはじめて、彼女は「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」すなわち「共同体感覚」を掘り起こすことができる。

 

課題の分離は、対人関係の最終目標ではありません。むしろ入り口なのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

そしてこれはちょうど、パピルスとアンダインとのデートで確認してきたことである。

「自己受容」を学んだパピルスと、「課題の分離」を再認識したアンダイン。

長くなってしまうため、今回の記事では、アルフィーがこのデートでいかにして「共同体感覚」の礎を築いたかは割愛する(※また別の回でアルフィー考察をメインにして行いたいと思う)が、とにかくアルフィーは主人公とのやりとりと、パピルスとアンダインから「自己受容」「課題の分離」を学んだことで、「対人関係の入り口」に立ち、他者と向かい合う勇気を持つことができた、と結論付けたい。

 

そう結論付ける根拠は、デートが終わったあと、しんじつのラボへ向かう途中の書き置きや、ラボ内部でのアルフィーのセリフロストソウル戦でのアルフィーのセリフである。

これまで「ゆうき」がなかったアルフィーが「ゆうき」を身につけようとしている。

「わたしの課題」はあくまで「わたしの課題」。
彼女は課題の分離を学び、責任転嫁をしない生き方を手に入れた。

画像

「ありのままのじぶん」のまま対人関係に挑めば、人は大なり小なり傷つく。「ありのままのじぶん」を受け入れられなかったときに傷つくその痛みは、「うそいつわりのじぶん」が否定されたときよりずっと重く、苦しいからである。

 

しかし、承認欲求から逃れ、「課題の分離」という対人関係の入り口に立った彼女は、「他者信頼」の入り口にも立つことができているはずである。「他者信頼」とは「他者は味方」だと思えていることである。

 

「他者は味方」と考えることのできる彼女になってはじめて、「転んだら手を差し伸べてくれるともだちがいる」と気付くことができたのだ。

ロストソウル戦。彼女は「他者は味方」という価値観を身につけることができた。

そして、「自己受容」「他者信頼」ができるアルフィーは、「他者貢献」もできるようになったはずである。味方である他者のために、何の見返りももとめず、他者のためになると信じる行動を、この先のアルフィーならばできるはずである。

他者を信じ、他者のために動けるモンスターになりたいというのが、彼女の願いだろう。

Pルートでは、いままであれほど汗が出てとまらなかったメタトンのボディを完成させることができたのも、「見返り」に縛られない「他者貢献」の発想をアルフィーが手にしたからに他ならない。

 

 

 

【第五回】に向けて

こうして、主要人物たちの心に、「共同体感覚」の礎が築かれたのである。

 

この先で、主人公はアズリエルと対峙することになる。アズリエルはこの世界のことを「ころすか、ころされるか」と考えている――すなわち、「他者は敵」という立場に立つ最大の強"敵"である。

 

いや、ここまで記事を読み進めたのなら、彼を「敵」と呼ぶことはおそらくふさわしくないであろう。Pルートを歩んできた主人公にとって、彼はもはや「敵」ではないはずだ

 

彼は敵対すべき存在ではなく、「味方」だからこそ、主人公はこのアズリエルを「SAVE」=「救う」ことができる(※日本語版では「ふっかつ」になっているが、原文では「SAVE」である)。そうして、すべてのモンスターと自分自身に「共同体感覚」を取り戻し、主人公は「自立」をしていく

 

 

次回はアズリエル戦と、Pルートのエンディングを見ていきたいと思う。

 

 

 

番外編:ナプスタブルークへの「勇気づけ」?

ところで、ナプスタブルーク戦を停戦に導く選択肢は「はげます」である。

「はげます」という言葉には「勇気づける」というニュアンスがある。

 

アドラー心理学では、ほめるでも叱るでもなく、命令でも従属でもない、横の関係に基づく援助を行うことを「勇気づけ」と呼んでいる

 

ここで主人公が行ったのは「勇気づけ」に近いものなのかもしれないということが、下記の動画で言及されていた。(1:30~)

youtu.be

「勇気づけ」とは英語の"Encourage"であるので、ナプスタブルーク戦の英語を調べたが……

ナプスタブルーク戦の「はげます」は、"Cheer"であった。ちょっと残念。(笑) 

 

 

 

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第三回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、レイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第三回 キャラとは何なのか? フリスクとは何なのか? 

 

UNDERTALEにおけるプレイヤー

『UNDERTALE』を"True Pacifist Route(TPルート、通称Pルート)"クリア済の人であれば、主人公=プレイヤーではないということはすでに見てのとおりだと思う。

Pルートの果てにたどり着いた主人公にはフリスクという名前があたえられていて、その名前はプレイヤーが入力した「おちたニンゲン」の名前にはなりえないはずだ。(ゲームシステム上、「フリスク」と名付けてPルートに行くことはかなわない。)

 

それでは、プレイヤーとは一体何なのだろうか? プレイヤーができることといえば、主人公を動かし、操作することだ。プレイヤーのこうどうしだいで、主人公が導かれる世界、主人公が関わっていくモンスターたちの世界は姿を変えていく。

 

ゲームにおいて、プレイヤーが「プレイヤーを感じる」行動のひとつに、「セーブすること」がある。このゲームでは、セーブポイント」=「ケツイをいだくポイント」になっている。

 

つまり、プレイヤーは主人公を「ケツイ」に導く人物ともいえる。

 

(▼もちろん、セーブなしで進めることも可能ではあるが……!)

www.youtube.com

 

さて、アドラー心理学では、人は常に「変わらない」という決心(=決意)をしているのだと考える。人は、今まで自分が培ってきた「ライフスタイル」を変更する際、大きな勇気を試される。

 

もしも「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。(中略)一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。(中略)つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

しかし、もしその「ライフスタイル」を変えることを望むのならば、「いま、この瞬間」に、「いまのライフスタイルをやめる」という決心(=決意)をしなければならない、と説く。

 

プレイヤーは、ケツイ(決心)への導き手である。主人公を、「他者は敵」という「ライフスタイル」であり続けるケツイへ導くのか、それとも、「他者は味方」という「ライフスタイル」に変えるケツイへと導くのか……。

 

それはプレイヤー次第なのである。

 

 

 

キャラとは何(誰)なのか?

キャラ(Chara)とはすなわち、我々自身がRPGの主人公に押し付ける人物像である。もっと正確にいえば、我々自身の、旧来のRPGにおける「モンスターは敵」という認知をしている思考そのものである。

というのは、キャラというのはゲームシステム上にある名前であって、"Genocide Route(通称Gルート)"を歩んだ先で出会うその人物の名前は「おちてきたニンゲンとしてプレイヤーが入力したなまえ(=RPGの主人公の名前)」だからである。

※筆者Gルートプレイ時の画像。筆者のHNは「ゆず」である

この名前は、鏡を見たときにも同じように表示される。(Nルートでは「じぶんだ」としか表示されない。Pルートはそのエンディング時にはじめて「やっぱりじぶんだよ、フリスク」とその名前が表示される。)

 

名義上ここでは「キャラ」と置いておくが、この考察の中では、あくまでこの人物は「モンスターは敵という認知のもとRPGをプレイする我々自身の反映」というイメージを念頭に置いていただきたい。

「じぶん」と「プレイヤー」を分けている「キャラ」。
プレイヤーがこのゲームの中で世界の見方を変えれば「キャラ」は生まれなかった。

さて、この「キャラ」に与えられた役付け(キャラクター)は、おそらくだが、「この世のすべてを憎むもの」に近い位置づけであると筆者は感じている。(「近い位置づけ」といったのは、「その程度の言葉では表せないくらい、キャラの憎悪は深い」と筆者が感じているからであるが……。)

「キャラ」は、本編開始前にバターカップで自殺を試み、タマシイとしてアズリエルの体内にあったとき、自分の村の人間を全力で攻撃することを提案している。そしてまた、Gルートの先で、「こんな世界は今すぐ消し去り 次へ進もう」という言葉を口にする。

ここからわかることは、この人物(キャラ)にとっては「世界は自分の敵である」ということである。

 

もし、世界が「自分の味方」であれば、そこに対して不平、不満、絶望を覚えたり、世界に対して攻撃欲求を持つ必要はないだろう。

人間にとっての悦びが社会の中で「ここにいていいんだ」と思える対人関係の悦びである(アドラー心理学)とするならば、世界に対して攻撃的である必要はないはずである。

世界に対してなぜ攻撃的にならなければならないのか? それは、「世界が敵」だからである。

 

そして、前述のとおり、キャラとは「モンスター(他者)は敵と認知している我々自身の思考」ないしは、「我々にとってのRPGの主人公」なのである。

 

すなわち、キャラとは「世界は敵」「他者は敵」という認知をもった、我々自身(の旧来の思考)を示しているのである。

 

「他者を敵」とみなしている人物が、対象に対して攻撃的である場合、その人物は「問題行動」に出ていると考えることができるだろう。先の記事(UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】 - UNDERTALE考察)で見た「問題行動の5段階」にあてはめるならば、さしずめ「復讐」の段階ということになる。

 

 

 

フリスクとは何(誰)なのか?

UNDERTALEでTPルートにたどり着いた際、おそらくは多くの人がフリスクFrisk)って誰!?」と思ったのではないだろうか。

筆者ははじめてその名前を目にしたとき、本当に驚いた。そして、口の中に爽快感が広がるようであった。「自分=プレイヤー自身」でないことは「しんじつのラボ」で分かっていたものの、「あなたは一体誰!?」と思わずにはいられなかった。

 

フリスクの考察の中に、興味深いものがある。

フリスク「キャラの死体である」という説である。

note.com

game.hatenadiary.com

(この説の内容についてはこのブログでは省略するため、各種リンク先を参照されたし。)

 

すなわち、プレイヤーが操作するニンゲンとは、キャラの成れの果てだ、というのである。

 

さて、キャラが「他者は敵」「世界は敵」とみなす「復讐」段階の人物だとするならば、その死体としてよみがえった人物は、「復讐」よりもさらに最下層の問題行動の層を呈していると考えられないだろうか?

すなわち「無能の証明」の段階である。

 

自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

キャラはアズリエルと共謀して、世界に「復讐」しようとした。しかし、そのアズリエルに裏切られた(アズリエルは、キャラが期待した行動をしなかった。そしてそれを裏切られたように感じたかもしれない。もしそうだとすれば、キャラは「課題の分離」ができていなかったと言える)。唯一「信用」していた相手に「裏切られた」と感じたとしたら、キャラが「絶望」を味わってもおかしくない。そうした果てに、もしもその人物がたどりつくとしたら、その先は「無能の証明」なのである。

 

さて、主人公=キャラの死体ではなかったとしても、このゲームの主人公にはキャラとの類似性があるはずである。すなわち、「イビト山に入り、そこから転落して地底に落ちてきた」という類似性だ。

年端もいかない子どもが、ひとりで山に入り、転落する――そういう境遇である以上、そのじんぶつの境遇はキャラに近いものを持つ可能性を拒否しきれない

「人に見捨てられ、世界に絶望したニンゲン」――このニンゲンを、この考察では「無能の証明」をしている人間と仮定したい。

 

「無能の証明」といえそうな点は、この主人公は自らの力では動くこともままならないという部分である。このじんぶつは、プレイヤーが動かしてやらないと、何もできないのである。目すら塞いでいるように見える……のは(Pルートの先でもそのままなので)考えすぎかもしれないが、まさにプレイヤーの力がないかぎりは「無能」なニンゲンなのである。

 

我々プレイヤーは、この「無能の証明」の主人公の導き手となる。その際、プレイヤーが「いせき」の中で、世界への認知を「他者(モンスター)は敵」という認知から「他者(モンスター)は味方」(このゲームで出てくる他者はすべてモンスターである)という認知に変えることができたのならば、このニンゲンは「キャラ」という「旧態依然なRPGの主人公(である我々自身の思考)」から抜け出すことができる

すなわち、フリスク」という別個の存在として「自立」できるのである。

それこそが「フリスクである、と位置付けたいと考える。

 

 

 

UNDERTALEは「自立」の物語

アドラー心理学の観点の基本は原因論ではなく、「目的論」である。この考え方に則れば、人は変わりたい自分に変わることができるということは、【第二回】(UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】 - UNDERTALE考察 にて述べた。

もし、主人公が最初は旧態依然なRPGの主人公=他者は敵という認知をしている人物だったとしても、「いせき」の中で「他者は味方である」という認知に立つことができたなら……

このじんぶつは「変わる」ことができる。

 

プレイヤーが主人公をTPルートに導くことは、主人公が「今、この瞬間に変わる」ことであり、そのことによって「他者は味方であり、他者のために動こうと思え、そんな自分を受容することができる」=「自立」へ向かわせること と同じなのである。

 

自分では何ひとつ行動も起こせなかったニンゲンを「フリスク」として、「私」のケツイなしに動けるように支援していく……

我々プレイヤー自身も、ニンゲンを通してそれを学びなおし、「自立」していく……

 

それが「UNDERTALE」の一側面なのではないか、と筆者は考える。

 

 

 

次回は、TPルートをたどると、どのように「変わる」ことができるのか、順を追ってみていきたいと思う。

 

 

 

UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第二回 アドラー心理学の概要と基礎理解

 

 

アドラー心理学って?

アドラー心理学アドラーしんりがく)、個人心理学(こじんしんりがく、individual psychology)とは、アルフレッド・アドラーAlfred Adler)が創始し、後継者たちが発展させてきた心理学の体系である。(『Wikipedia』より引用)

 

アドラー心理学」とひとことにいっても、その体系は幅広く、このブログ1つで説明できるほど容易ではない。また、ブログ管理人自体、この心理学について熱心な勉学に励んだわけではなく、アドラー心理学を一般流布させたベストセラー『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』、その他関連の本やWebページを読んだだけであることは承知の上で読んでいただきたい。

 

ここでは、本UNDERTALE考察で重要となってくるものに的をしぼり、アドラー心理学で提唱される「目的論」「ライフスタイル」「人間の悩みとはすなわち対人関係の悩みである~劣等感・劣等コンプレックス~」「他者は味方という認識」「課題の分離」「問題行動の5段階」「共同体感覚」についての概要を簡単に説明しようと思う。

 

この記事では、UNDERTALE考察に必要な概略のみを説明することになる。

もしアドラー心理学をもっと詳しく知りたい、というのであれば、各自詳細を検索されたし。

diamond.jp

yuik.net

 

 

 

フロイト的「原因論」とアドラー的「目的論」

"アドラー心理学では、個人の悩みは、過去に起因するのではなく、未来をどうしたいという目的に起因して行動を選択している、と捉える。"(『Wikipedia』より引用)

 

アドラー心理学によれば、人間には「過去のトラウマ」など存在しない、というのである。人間が起こす行動はすなわち、その行動によって達成されるべき「目的」のために為される、と解釈する。

 

(例)【原因論】私は過去にいじめられたからひきこもりになった。

(例)【目的論】ひきこもることで他者の関心を引きたいためにひきこもりになっている。

 

ここで過去に「いじめられた」かどうかは、「ひきこもりになった」こととは関係がない、とアドラーは提唱するのだという。なぜといえば、「いじめられた」からといって「ひきこもりになる」とは限らないからである。「ひきこもりになった」のは、その人が「ひきこもりになる」ことで、何か得する理由・目的があるはずだととらえる――それが、アドラー心理学的「目的論」の考え方である。

 

ひきこもりになる目的は、その人によってそれぞれだろう。「親や教師の関心をひきたい(ひきこもっていることにより、誰かが自分を特別視してくれる)」「人付き合いが面倒くさいので、なるべく外に出たくない」……それらは「いじめられたかどうか」が問題なのではない。いじめられたからといって、ひきこもりにならない人は、ならないのである。

 

ここで、その目的を「人付き合いが面倒くさい」と結論づけた場合、その印象自体は「いじめられた」から受けることになるかもしれない(いじめられるような人間関係が面倒くさい、と考えるきっかけになるかもしれない)。ただ、それは「ひきこもり」の原因と考える必要はないのである。(本当に「いじめ」が原因なのなら、そのいじめがなくなれば、その人はひきこもりを二度と起こさないことになる。しかし、ひきこもりの実態の中には、当該学校卒業ないしは転学、退学後、大人になってもひきこもりが続くことがある。)

 

 

さて、この「原因論」から「目的論」への認知の意向は、良いことを生む。

それは、「過去のトラウマ(原因)は変えられないが、今の目的はよりよい方に変えられる」ということである。

たとえ過去にいじめられたとしても、「親の興味を引きたかっただけかもしれない」と自分の目的を見直すことによって、「ひきこもりによって親の興味を引く必要はない=ありのままの自分でいても、自分はみんなから存在を認められている」と思えれば、ひきこもりになる必要はなくなる。

すなわち、「目的論」でものをとらえることができれば、

人は「変わりたい自分」に変わることができる! のである。

 

そしてアドラー心理学は、自分がよりよく変わる「勇気」を大きく主張する。

 

 

性格は変えられない?――性格ではなく「ライフスタイル」を変える――

あなたは自分の性格に満足しているだろうか。もしも変えられるものならもっと素晴らしい性格になりたい、あの人みたいに陽気だったらもっと人に話しかけられるのに! あの人みたいに自信満々だったら緊張しなくてすむのに! ……そんなことを考えたことはないだろうか。そして「私は人見知り(性格)だから人とうまく話せないし、すぐ緊張する……」なんてことを考えるのではないだろうか。そして、ひいては「性格は変えられないから、あの人みたいにはなれない」という結論に流れていくのではないだろうか。

 

ここまで読んでお気づきかと思うが、「性格」というものは「原因論」と結びつきやすい言葉なのである。

 

上記の場合、「人とうまく話せない」ことの言い訳(原因)が「性格」のせいだということになる。しかし、アドラー的「目的論」でとらえるならば、その人は「人と交流して傷つくことから逃れるために」人見知りという性格を装っている、ということになる。

 

アドラー心理学的見地からすると、一人ひとりに性格の差はないのだという。

性格の差というのはすなわち「行動の差」であって、その人が日頃から何を行うかによって定められるものである というのである。

 

アドラーはそのことを「ライフスタイル」と呼んだ。一人ひとりに性格の違いというものはなく、その人がどのような行動をとるか――すなわち、どんな「ライフスタイル」を選択するか、が問題であるのだ、と。

そして、ライフスタイルは、行動の集大成であるから、変えることができる! というのである。

 

自分を「人見知り」だと思っている人が、「勇気」を持って、毎日人に話しかけてみたとしよう。傷つくことがあるかもしれないけれど、それを恐れずに毎日人に話しかけてみたとしよう。たとえもしその人が吃音症で、話すのが苦手だっとしても、人に話しかける努力を毎日怠らなかったとしよう。――その人のことを、周りの人は「人見知り」だと思うだろうか?

 

おそらく、思わないはずである。「人見知り」と思っている人は、「人に話しかけない」というライフスタイルを自分から選び取っているということになるのである。

 

 

 

人間の悩みはすべて対人関係の悩み――「劣等感」と「劣等コンプレックス」――

アドラー心理学によれば、人間の悩みはすべて「対人関係の悩み」なのだという。おおよそ、自分が悩みだと思うことをあげてみてほしい。金銭の悩み?容姿の悩み?性格の悩み?等々……。次に、自分がこの広い宇宙にたった一人しか存在していないところを想像してみてほしい。さて、先ほどあげてみた「悩み」は、その世界(広い宇宙に自分ひとりしかいない世界)でも継続するだろうか?

 

「通貨」は、取引する相手がいなければ意味をなさない。「容姿」は、それを見てくれる相手、それを比較する相手がいなければ意味をなさない。「性格」も、どれだけ暴力的で奔放であろうが、それを咎める者は誰ひとりいない。――そう考えると、人間の悩みは大なり小なりすべて「人間関係の悩み」なのである。

 

さて、自分以外にも人間がいると、どのようなことが起こるかといえば、人は「劣等感」を覚えるのである。

 

「私は(あの人より)身長が低い」「私は(あの人より)お金を持っていない」「私は(あの人より)才能がない」「私は(あの人より)好かれない」……これらを「劣等感」と呼ぶことについては、何も異論はないだろう。

 

アドラー心理学では「劣等感」は持つべきものとして提唱される。「容姿」に劣等感を抱く人は、少しでも綺麗に見られるよう、服装や化粧に気を遣うだろう。「お金」に劣等感を抱く人は、仕事における向上心に繋がるかもしれない。「才能」に劣等感を抱く人は、一生懸命努力しようとする心に繋がるだろう。「好かれない」ことに引っかかっている人は、自分の性格をよくしようと努力できるかもしれない。つまり、自分をよりよく変えていく材料になるのである。

 

いやいや、「劣等感」はそんな前向きなものではない――と思う人は、「劣等感」ではなく「劣等コンプレックス」を抱いている、ということになる。「劣等コンプレックス」は、アドラー心理学で強く否定されるものである。

 

「劣等コンプレックス」とは、上記であげた「劣等感」について、「そのせいで自分はうまくいかない」と考えることである。

 

【例】私はブサイクだからモテない。

【例】私は性格が悪いから誰からも好かれない。

【例】私は才能がないから誰からも認めてもらえない。

 

自分の劣等性を理由に、自分を変える勇気を持たないこと。それが「劣等コンプレックス」なのである。

 

劣等コンプレックスは、自分が変われないことに対して都合の良い言い訳(=原因)を取ってきているだけである。

「モテない」「好かれない」「認められない」ことを、「ブサイク」「性格」「才能」のせいにしているだけなのである。

「モテる」「好かれる」「認められる」ための努力が面倒くさいために、適切な原因を引き出している状態ともいえる。

 

また、劣等コンプレックスが発展したものとして「優越コンプレックス」も存在する。

「~だからモテない、好かれない、認められない」……などといった状況のままでいるのは辛い。だからといってそのための努力ができない人は、今度はあたかも自分が優れているかのように見せかけるのだという。

 

「権威づけ」という言葉で表されるが、分かりやすくいえば、自分と身近な誰かの出世話を自分のことのように自慢したり、過剰にブランド物を身につけることによって、自分は優れていて、偉い、特別である――と見せかけるような状態である。

 

 

人は誰しも劣等感を抱く存在である。しかし、それをコンプレックスとしてしまっては、前に進むことができない。

 

前に進みたければ、その劣等感を抱えた自分を「これからどうしていくか」が大切なのである。そして、それが「生きる目的を変えること」、すなわち「ライフスタイルを変えること」なのである。

 

そしてライフスタイルを変えることにはどうしても「勇気」がつきまとう。何かを変えること、努力をすることは人にとって非常に「勇気」のいることだからである。

 

これまでの見出しの中でも何度か「勇気」という言葉を出してきたことにお気づきだろうか? アドラー心理学は、「勇気の心理学」といってしかるべき心理学なのである。

 

 

 

他者は「敵」ではなく「味方」であるという認知

アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩み」と結論付ける。上述したように、人間は誰しも劣等感にさいなまれる生き物だからである。

しかし、同じく上述したとおり、劣等感とは健全な心の動きでもある。それがどうして、劣等コンプレックスにつながってしまったり、「嫉妬」や「羨望」が介入したりしてしまうのか。

 

それは、我々が「他者は敵だ」という認識に立っているからである。

 

信賞必罰、競争社会の中で、人は「敗北者になりたくない」という考えを起こす。そうなってしまうと、周りの人はすべて自分を陥れるかもしれない「敵」となり得るのである。劣等感によって人を嫉妬し、その相手が称賛をもらうことを心から喜べないのはなぜか? その相手が、自分の「敵」となってしまっているからである。

本来ならば自分がもらうはずだった称賛を、栄光を横から盗み去っていく存在――他者がそのような存在になってしまっているのならば、それは他者を「敵」とみなしており、競争原理に従って生きていることなのである

 

しかし、アドラー心理学では「健全な劣等感(=優越性の追求)」は、競争原理のような「他人を蹴倒して、人を押しのけて上にのしあがるような態度」と分類しない。

 

哲人 健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

青年 しかし……。

哲人 いいですか、われわれは誰もが違っています。性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

われわれは、すべて「同じではないけれど対等」なのであり、人々はみな、同じ地平を、それぞれ自分が進むべき方向に歩いていく「仲間」である――そうとらえると、「嫉妬」や「羨望」などもはや必要なくなる。

すなわち、嫌な劣等感ではなく、「健全な劣等感」を持ち、他者の幸せを心から祝福できる、というのである。そして、仲間のために「貢献」したい健全な気持ちがわき、後述する「共同体感覚」に繋がっていく。

 

 

 

他人の人生を生きてはならない――「課題の分離」――

さて、何度も述べるがアドラー心理学によれば「人間の悩みはすべて対人関係の悩み」である。逆に言えば、対人関係の悩みが解決されれば、人間は悩みなく生きていけることになる。それでは、どうしたら対人関係の悩みはなくなる(あるいは、軽くなる)のか?

その鍵は、他人の評価に惑わされず(=他人の期待を満たそうとせずに=他人の人生を生きずに)、自分の人生を生きることにある。

 

他人が自分を否定しようが、自分のことを嫌いになろうが、あるいは他人が自分をとても褒めようが、自分は自分として、自分らしく生きていく。自分らしく生きている「私」が、そのままで存在を認められていると実感できれば、人は幸せなのではなかろうか?

 

そのために、アドラー心理学では「課題は分離せよ」と唱える。

 

「私がする行動」「私が変えられること」であり、「私の課題」であるが、

私の行動によって「相手がどう思うか」「相手の課題」であり、「私にはどうすることもできないこと」 だというのだ。

 

そう考えることによって、人は自由にふるまうことができる。「相手がどう思うか」を「どうすることもできない」のならば、それは考えるだけ無駄なことなのである。

自分が自分らしく生きている。その姿を見て「好き」と思う人間もいれば、「嫌い」と感じる人間もいる。そのどちらも否定する必要はない。「好き」な人に嫌われようとする必要もなければ、「嫌い」と感じる人に忠誠を誓い、自分の行動をその人に合わせる(=好かれようとする)必要もない。

自由にふるまうとは、他者の期待を満たさず、自分の人生を生きるということに繋がる。

 

「課題の分離」ができると、人は「嫌われる勇気」を手に入れることができる。「嫌われる勇気」があれば、人は自由に生きることができるのである。

 

たとえば、満員電車の中、老人を見つけたとしよう。「私」はその人に席をゆずってあげたいと考える。けれどもし、席をゆずったとしたら……? 「自分はそんなに老けて見えるのか」と怒られる可能性もある。

しかし、もし「課題の分離」ができているのならば、「自分の良心の声」にしたがって、自由に行動することができる。

もし相手が自分のことを怒っても、「私が起こした行動によって相手がどう思うのか」は「相手の課題」であるのだから、相手の怒りは「相手の課題」として、自分が傷つく必要はないのである。

 

それでは、何をしてもいいことにならないか?「何でも自由に(=わがままに)生きていればいいのではないか?」というと、それも違う。人間の悩みは対人関係の悩みであるならばすなわち、人間の悦びもまた対人関係の悦びなのである。

 

後述の「共同体感覚」にて説明するが、アドラー心理学では「課題の分離」をしながら、人は「他者貢献(=人のためになること)」をしていくことで、「自己受容(=自分を社会のなかに存在するものとして自分自身で認めていけること)」ができると考えている。そうして、社会の中に自分の存在が認められるとき、すなわち、「ここにいてもいいんだ」と心から実感できるとき、人間は幸せなのだ、と考えるのである。

 

 

 

問題行動の五段階

かのアリストテレス「人間はポリス的動物である」と言ったように、人間社会ではどうしても他の人間と関わらずに生きていくことができない。だから、人はその生存欲求として、「他者と繋がっていたい」と考えてしまう。

 

その考え自体は間違いではない。前述したとおり、人間は社会の中で生きるからこそ幸福を得られる。しかし、「他者と繋がりたい」気持ちが「他者に認められたい」という形で顔を出すと、人間は問題行動を起こしていく。

 

「他者と繋がる」もっとも簡単で分かりやすい状況が「人に認められること(承認されること)」である。ポリス的動物である人間は、誰しもが「特別な『私』」を他人に認めてもらいたいと考えるようになる。その結果、「承認欲求」が生まれるのである。

 

しかし、アドラー心理学はその姿勢を否定する。なぜならば、他人に認めてもらう人生というのは、自分の人生を歩んでいないということだからである。

 

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

アドラー心理学は、「承認欲求」を否定する。すなわち、「褒める」ことそのものを否定する。「褒められた」人間は、「他人の評価」を求めることになる。「他人の評価」のために行動する人間は、自分の人生を生きていないことになるからである。さらに言えば、「褒める」という行動は、人を上からの評価に晒すことであり、対等な人間関係からの行いではない。この考え方は「競争原理」すなわち「他者は敵である」という思想に繋がる考え方なのである。

 

アドラー心理学は、対人関係の悩みをなくすための方法として、「特別でない『私』が誰からも存在を認められていると自分自身で実感できること(=他者の承認なしで、独り立ちできること=自立)」を目指していく。それに対して、「特別な『私』」を助長する「承認欲求」、それを満たす「褒める」行為を否定した。

 

人間が、対人関係に悩まされずに生きるためには、「称賛を求めてはならない」のである。アドラー心理学では、「称賛を求めること」は、問題行動の第一段階として取り上げられる。そして、アドラー心理学によれば、問題行動は5段階存在するという。それぞれを簡単に見ていく。

 

問題行動の第一段階:称賛の要求

他者と繋がりたい人間が最初に行う行為が、「褒められようと努力する」ことである。この状態だけ見れば、ひどく健全な状態に見えるかもしれない。しかし、この行いは「褒められたい」ために行動を起こしている段階であり、もし誰からも褒めてもらえないとしたら、その人間は努力ができないという段階にある。自分の人生を他人の評価にゆだねている、問題行動の一番の入り口なのである。

その証拠に、もし称賛を得られなくなったら人の行動はいわゆる「悪い方向」に向かう。

 

問題行動の第二段階:注目喚起

上記にて、人はその社会性からして「他者と繋がっていたい」と考えると述べた。そのために誰でも特別な『私』であろうとするのである。褒められようとするのも、特別な『私』として扱ってほしい一つの段階なのである。

しかし、もし褒められなかったら――それでも「他者と繋がっていたい」人間は、「なんでもいいから目立ってやろう」と考える。こどもが「いたずら」によって親から注目されることを望んだり、授業中に騒いでみせるような例があげられる。

 

問題行動の第三段階:権力争い

他者に対し、反抗し挑発し、権力争いを申し込む。それに「勝つ」ことで自分を認めてもらおうとする段階である。

親や教師に反抗してみたり、あるいはその指示を無視したりわざと失敗して怒られるようなことをする段階である。

 

問題行動の第四段階:復讐

権力争いに敗れたり、相手にしてもらえなかった人は、その相手に対して「憎悪」を投げかけるようになる。

ありとあらゆる手段で相手へ嫌がらせをし、「いっそ自分のことを憎んでくれ」というアピールをする。

 

上記の通り、人はどうしても「他者と繋がっていたい」生き物なのである。しかし、その他者から、どうあがいても存在が認められない時、ひとは「憎悪」の感情でもいいから人と繋がっていたい、と考えるのである。

相手にされない(自分の存在が認められない)よりは、相手から憎み、恨まれるほうがマシだというのである。

ストーカーや嫌がらせ行為なども、典型的な「愛の復讐」にあたるという。

 

しかし、もしそれすらも相手にされなかったら――。すなわち、「憎悪」という最下層の感情でも「他者と繋がる」ことが出来なかった人間はどうなってしまうのか

「絶望」してしまうのである。

 

絶望した人間がとる、第五段階の問題行動とは――。

 

問題行動の第五段階:無能の証明

自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

www.diamond.co.jp

 

 

自分が何もできないと証明することだ、というのである。

 

さて、このUNDERTALE考察においては、プレイヤーが操作するニンゲンを、この「無能の証明」と位置付けたいと考えている。キャラが「復讐」の段階かといえばあやしいところではあるが、そこに関する考察も次回以降で詳述できればと考えている。

 

アドラー心理学では、人間がこのような段階に至らないために、「褒めること」(そして「叱ること」)を否定する。また、「褒めること」は必ず「褒められたい」人たちの争いに繋がり、競争原理(=他者は「敵」という認知)に繋がっていく。

 

それでは、「褒められる」というわかりやすい「承認」以外で他者と繋がる方法とは、一体何なのか?

それこそが「他者を信頼し、他者に関心を寄せることで、他者に貢献をする」、その結果「自分はここにいていいんだ」と思えること――すなわち、「共同体感覚」である。

 

 

共同体感覚

本UNDERTALE考察は「アズリエルにとりこまれたときのモンスターたちは共同体感覚を味わっている」というところに終結させたいため、非常に重要な観点となってくる部分であるが、この感覚は説明が難しいので(アドラーの言う「共同体」が包括する世界が広すぎて、筆者も理解できている感覚がない)、引用や参考によって簡単にまとめたいと思う。

 

もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

(中略)

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

www.idear.co.jp

 

アドラーは、人は「共同体感覚」に至るために、「自己への執着(self interest)」から「他者への関心(social interest)」に切り替えていく必要があるのだという。

 

アドラー心理学では、「私は私らしく自由に生きること」を推奨するが、同時に「私は世界の中心にいるわけではない、と説く。

「わたし」は人生の主人公でありながらまた、共同体の一員であり、全体の一部である。

 

人間の悦びが対人関係の悦びであるならば、人間は「所属感」を持てたとき(=「ここにいていいんだ」と思えたとき)に、幸福を感じられるのである。そのために、人は他者の期待を満たす存在ではない自己でありながらも、他者に関心をよせ、他者に貢献していくことが大切なのだ、と説いている。

 

「共同体感覚」に必要な鍵は「他者信頼」「他者貢献」「自己受容」である。

 

「他者信頼(他者を仲間だと思えている)」→「他者貢献(他者のためになると自分が思っていることをする)」→「自己受容(自分はここにいていいんだと思える)」(→「他者信頼」)のサイクルによって、人は「共同体感覚」を自ら掘り起こしていくことができるのだという。

 

人が幸せを実感するために大切な感覚が「共同体感覚」なのである。

 

 

おわりに

さて、第一回の考察で、UNDERTALEは「フリスクを自立させる物語である」と述べた。

 

ここまで章立てていくつか筆者が理解している範囲でのアドラー心理学の概要をお伝えしたが、アドラー心理学が向かう先は、人ひとりひとりの「自立」である、と筆者は考えている。

自分が自分らしく生き、その状態で社会と調和して過ごせている……それこそ、「自立」の在り方である

 

 

ここまでの概要をもとに、次回からはアドラー心理学的見地からUNDERTALEを詳細に分析してみたい。