UNDERTALEをアドラー心理学で読む【番外編:人物考察①トリエル編】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇番外編:人物考察①トリエル編

第五回まで、Pルートの軌跡をたどってきた。次なる考察は"Genocide Route"(通称Gルート)といきたいところだが、その前にPルートで考察を省略した主要登場人物たちの考察を進めておきたい。ということで、今回はトリエルの話をしようと思う。

 

【人物考察:トリエル編】

トリエルについては、【第一回】でも少々述べたが、典型的な「母親」のアナロジーであるように思う。以下は、【第一回】の考察からの引用である。

 

「トリエル」がいる間、主人公はバトルさえも必要ない。傷ついても、全て回復してくれる。主人公を庇護する保護者であり、無償の愛をくれる存在、まさに「母親」である。

常に主人公を見守り続けているトリエル

主人公は「いせき」の内部において、トリエルに「守られている」のである。

 

さて、「母親」であるトリエルにとって、主人公は「こども」である。しかも、ただのこどもではなく「彼女のこども」なのである。UNDERTALEの英語原文では彼女は主人公を「my child」と呼び非公式訳では「我が子」と訳されている

 

さて、親とは本来子どもの「自立」を願わなければならない存在である。しかし、どの親も、本来の意味で子ども自立に向かう行動を実践するのは厳しいことである。なぜならば、親は子に期待をかけるし、親は子の庇護者であるぶん、自分の目の届かない行動をされることは困ることだからである。

 

親が子どもにしがちな行動……それは「課題の介入」である。

 

時に子どもが、大人から見て無謀に見える相談をしたとき、それに対して許可を下さない親……時に子どもが、自分の意に沿わない提案をしたとき、そんなことをしてはダメ、と唱える親……世間一般には、そんな親たちは数多くいることだろう。

 

しかし、アドラー心理学的な「課題の分離」の考え方でいえば、この「課題の介入」は、他者の心に土足で踏み込み、その信頼をなくし、勇気をくじく危険な行為なのである。アドラー心理学でいう「課題」とは、その行動によって最終的に誰が責任を負うか、その責任を負う本人がその「課題」の持ち主なのだと説く。

 

子どもは、大人ほど知識も経験もない。ゆえにとれる責任も少ない。だが、だからといって彼らは大人より「下の存在」ではない。アドラー心理学的見地からいえば、すべての人間は「同じではないけれど平等」であり、子どもであろうが親であろうがそこに変わりはない。もし、子どもの自由を親が奪ってしまったのならば、それは「人間を平等として見ていない態度」と変わりがない。

 

子どもがした行動について最終的に責任を負うのは親ではなく、子ども自身なのだ(たとえば、子どもが勉強をしないことで将来困るのは親ではなく、子ども自身である)。そうであれば、「親」は「子ども」の課題に介入すべきではない

 

しかしながら、親はどうしても、子どもに対して過剰にその自由と自立を奪う瞬間が存在する。そしてその時、その言い訳として持ち出される言葉は何であろうか。

 

「それはあなたのためなのよ」「あなたのことを思って言ってるのよ」である。

 

しかし、これらの言葉は、本来こどもの自由なる自立を阻害する「課題の介入」なのである。(※むろん、子どもに対して放任主義であれという意味ではない。アドラー心理学では、もし子どもが危険なこと、悪いことをしようとしているとき、親は「ダメ」と叱りつけるのではなく、「それがいかに危険なこと(悪いこと)なのか丁寧に教えたうえで子ども自身に判断させることが良い」と考えているように筆者はとらえている)

 

たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的――それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません――を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

さて、上記の「あなたのため……」という言葉であるが、UNDERTALEをくまなくプレイしている読者の方々なら、その文字列に見覚えがあると思う。

 

そう、トリエルを「ぶんせき」したときに見えるテキストなのである。

「これは あなたを まもるため」

実際にトリエルは主人公を「死」の危険から守りたいのであろう。しかし、主人公が「死ぬ」と決めつけて、本人の意思を尊重せず、「my child」がアズゴアから殺されることを辛く感じ、その苦しみから逃れたいのはトリエル自身の課題なのである。

 

つまり、トリエルは「my child(我が子)」に対する「課題の介入」をしていたじんぶつだった、ということができよう。

それは「トリエルの願い」であって、主人公の願いではない。

そして、そんな彼女にはどんな「こうどう」も通用しなかった話し合いすら何の解決手段にもならない。親と子どもは時にそんな関係になることはある。親に望まれない結婚をするとき、離縁することになるのは、まさに親の子どもへの介入によっておきるのである。

 

さて、「課題の介入」についてのアドラー心理学の視点はこうである。

「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」

 

すなわち、ここでは主人公がトリエルの苦しみをなんとかすることはできないのであり、同時にトリエルはその苦しみを逃れるために子どもを操作しようとしてはいけないのである。

トリエルを「こうげき」しない。トリエルに対して「こうどう」もしない。そして、「逃げる」わけにもいかない

 

たとえそれで、トリエル(母親)と縁を切ってしまうことになっても、自分の自由にすること。それが「自立」なのである。

 

恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。…(中略)…ところが、親子関係では原則としてそれができない。恋愛が赤い意図で結ばれた関係だとするならば、親子は頑丈な鎖でつながれた関係です。しかも自分の手には、小さなハサミしかない。親子関係のむずかしさはここにあります。

(中略)

いまの段階でいえるのは、逃げてはならない、ということです。それほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。
(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

これは『嫌われる勇気』からの引用であるが、まさにトリエル戦そのものといっても過言ではない。

自分自身の「自立」のためには、「このまま」でいてはいけない。逃げてはいけない。しかし、「はなす」ことは、トリエルには意味がない。話し合いでは解決できない問題なのである。

 

だから、主人公はトリエルと延々と「向き合う」必要があった。ただただひたすら、逃げもせず、だからといって自分を相手に合わせることもしない。

そして、もしこれが不殺の道ではないのなら、主人公はトリエルとは一生分かり合えない選択をすることになる(トリエルをころしてしまうことになる)。

不殺、Pルートでは、話し合いもできない彼女と向き合い続け、「たたかいたくない」という意思をひたすら表明しつづけたのである。

 

結果、トリエルとの関係はどうなってしまうかといえば、「絶縁」となってしまう。たとえ停戦に成功しても、彼女にはもう二度と、電話すらすることができない。

(※たとえ停戦できても、彼女は「いちど このとびらの そとに でたら… にどと ここへは もどらないこと」と発言し、以降は電話に一切出ない。)

 

アドラー心理学を用いれば対人関係がすべてうまくいくわけではない。それが対人関係である以上、その関係が終わってしまうこともある。そして、その別れがつらく苦しいものであることもある。それは時に、強い心の痛み(Heartache)を伴うこともある。

しかし、「たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う」、それが親子関係には必要なことなのだ。

 

ただし、ここでもしトリエルと停戦できれば、トリエルには一つ大きな変化がうまれる。

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それがたとえ「絶縁」という形であっても、彼女は「怒り」に支配されることなく、主人公の意思を(直後寝るとアズゴアのセリフが聞けることから、「ケツイを」と言ってもよいかもしれない)尊重することができたのである。

「わたしののぞみも…さみしいきもちも…しんぱいも…」それらはすべて、「トリエルの課題」なのである。決して、主人公に押し付けるべき課題ではない。

 

すなわち、彼女はこの時において「課題の分離」をしようと努力をしているのである。

 

Nルートでは、彼女とは永遠に「絶縁」状態のままだ。しかし、このことはPルートで彼女のこころに大きな変化をもたらしている。

彼女は心の底から、「わが子(my child)の自立を願うことができた」のだ。

「自分の未来は自分で決める」――それは、アドラー心理学における、課題の介入と真逆の行い、すなわち「勇気づけ」である。

「それは自分できめていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料――たとえば知識や経験――があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

トリエルはまさに典型的な「母親」としてのキャラクターづけであったのだろう。