UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第五回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、プレイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第五回 モンスターと自分に「共同体感覚」を―自立への軌跡―

"True Pacifist Route"(以下Pルート)は、主人公が新しい価値観を身につけ、「自立」していく物語だと述べてきた。

今回は、実際のアズリエル戦を考察し、その最終章としたいと思う。

 

共同体感覚とは

今一度、「共同体感覚」についてまとめておきたいと思う。

 

もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

(中略)

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

「共同体感覚」とは他者を仲間だとみなしそこに「自分の居場所がある」と感じられることだとある。

しかし、ここでいう「共同体」とは、身近な種族だけに留まらず、過去から未来の時間における、動植物、無生物、果てには宇宙まですべて含む、というのが、アドラーが思い描く「共同体」である。

 

アドラーは、『共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)』というドイツ語を英語圏に伝える際に、"social interest"という言葉を用いた。すなわち「社会への関心」、「他者への関心」である。これは、Pルートを歩むなかで、主人公(をつき動かすプレイヤー)がおこなってきた「こうどう」そのものである。

 

そしてまた、主人公に「こうどう」「デート」を行われたモンスターが、主人公から「関心を寄せられる」ことによって、身につけてきた感覚ともいえるだろう。(詳細は【第四回】参照)

 

さて、最後にもうひとり、「共同体感覚」を知ってもらわなければならない人物がいる。それこそが、この世は「ころすかころされるか」すなわち、「世界は自分の敵だ」と信じている、フラウィ、ひいてはアズリエル・ドリーマーである。

 

 

アズリエル戦:モンスターのタマシイがひとつに――「共同体感覚」――

Pルートの最終戦にて、フラウィ(アズリエル)が一番恐れていることは「主人公の存在を失うこと」

第二回】にて書いた通り、人間は(この場合はモンスターだが)、その生存本能として他者から存在を容認してもらいたいというものがある。人はだれしも孤独を恐れ、孤独の不安感と戦っている存在なのだ

フラウィは、この物語の中で唯一「ケツイ」を持ったモンスターである。彼は「はな」であり、「モンスター」ではない(だからケツイを抱いても溶けずに存在できる)。そんな彼は、この世界では「みんなとは違う」のであり、「孤独」なのである。「孤独」な彼は、とうぜん「同じ仲間」からの承認が欲しい。しかし、彼の価値観はこの世は「ころすかころされるか」。すなわち、他者は敵なのだ

 

そんな彼が、(ケツイを抱くことのできる存在として)「同じ仲間」である「主人公」と結びつくためにとった行動は「憎悪による繋がり」なのである。(【第二回】「問題行動の5段階」参照)

彼の目的は「せかいをほろぼす」ことではない。憎悪による「つながり」だ。

彼はどうしてこのようなライフスタイルを選択してしまったのだろうか。
もちろん、一つには、彼が「おはな」になってしまったために「タマシイ」がなく、「感情」のないまま長い時を過ごして来たというのもあるだろう。しかし、一番の契機となった出来事は、「キャラ」と「共同体」になった時の事件からだろう。

 

このときに、彼は「他者は敵」というライフスタイルを自ら選択したのだ。
これ以上「傷つかない」ために。

彼は、「ありのままの彼らしい自分」のこうどうを、多くのニンゲンに汚された。その自分がこれ以上傷つかないために、「他者は敵」というライフスタイルを選択しやすい状況にあった

あるいは、彼の中に「キャラ」の「タマシイ」があったことも、大きな要因だったかもしれない。

 

「他者は敵」というライフスタイルでは、「他者貢献」の発想は生まれない。他者の承認を絶えず必要とするために、それまでのアルフィーと同じで、絶えざる不安にさいなまれる。「ここにいてもいいのだ」という所属感を得ることができないのだ。

 

すなわち、彼の今の苦しみとは、「孤独」そのもの(あるいは、それに伴う不安感)なのである

 

そして、それを救うためにアドラー心理学が何を唱えているかといえば「共同体感覚」なのである

われわれは共同体の一員として、そこに所属しています。共同体のなかに自分の居場所があると感じられること、「ここにいてもいいのだ」と感じられること、つまり所属感を持っていること、これは人間の基本的な欲求です。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

そこに自分の居場所がないと思うことを「孤独」の定義だとするならば(宇宙にただひとり「わたし」しかいない状態では、「孤独」という概念すら生まれないであろう)、彼が得たいものはその逆、すなわち「共同体感覚」なのである

 

それを、彼に呼び覚ましてあげるのが、まずはPルートで必要不可欠なことだといえよう。

 

①こころに「ゆめ」と「きぼう」を~絶望から希望へ~

Pルート戦の「こうどう」「ゆめ」と「きぼう」を抱き続けることだ。

アドラー心理学の考えでいえば、「人は誰でも変わりたいと思ったその瞬間から変わることができる」

アズリエルがもし「憎悪」の感情で主人公と繋がりたいという「復讐」の段階まで落ちているのだとすれば(※詳細は【第二回 】参照)、その先に彼に待っているものは「絶望」そして「無能の証明」ということになる。

 

しかし、この物語では、彼もまた「自立」し、「絶望」から救われ、「共同体感覚」を掘り起こしてもらわなければならないすべてのモンスターに「共同体感覚」がなければ、その先のPルートで「ニンゲン」と「モンスター」の共生は実現しないからだ。(※詳細は後述。)

 

そのための主人公の行動は「ゆめ」と「きぼう」を、自分自身が抱き続けることなのだ。「ゆめ」と「きぼう」は、ゲーム内で物語の主人公……「勇者」すなわち「勇気ある存在」が抱き続けるものだ。どのゲームでも、基本的にはそうであるように思う。

 

アドラー心理学では、相手にプラスのエネルギーを与え続けること、相手を能動的に自立へ導く行為を「勇気づけ」と呼んでいる。

そして、「勇気づけ」は、自身に「勇気」がある者にしかできないと言われている。

まずは主人公が「勇気」を持たなければならない。すなわち、彼に届けるべき「ゆめ」と「きぼう」を、主人公が抱き続けなければならないのだ。

 

また、「きぼう」とは、モンスターがもともと持っているタマシイの形のひとつでもある。

「あい」「きぼう」「おもいやり」……モンスターは、そのタマシイのなかに「共同体感覚」を内在している

主人公は「勇気づけ」によって、彼の「共同体感覚」に「共鳴(きょうめい)」するのだ。

 

 

②ロストソウル戦~彼のうちなるタマシイの「共同体感覚」の叫び~

ロストソウルとはそもそも何だろうか? 「ソウルレス」と言葉は違うのでよくよく解釈しなければならないが、「ロスト(lost)」とは「失われた」ことであり、「ソウル(Soul)」とは日本語訳の「タマシイ」のことである。また、"lost"とは"lose(負ける)"の過去形でもある。

 

彼らがもしこれまでのタマシイを失ってしまっているのだとしたら……または、アズリエルのタマシイの力に負けてしまっているのだとしたら、アズリエルにとりこまれた主人公の「ともだち」たちは、「他者は敵」という価値観、すなわち「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」のない価値観に再び染まってしまっている。

 

ロストソウル戦は、そのみんなの「タマシイ」を救い出す(=SAVE、復活させる=彼らに「共同体感覚」を取り戻す)行為だ。

「ニンゲンをつかまえて他人に評価されること」より自分の意思を尊重したパピルス「ありのままの自分」でも、友達はつくれるのだ。

ニンゲンですらも、自らの敵ではないということをアンダインに思い出してもらう。

「他者は味方」という考え方によって生き方を変えたアルフィーの大事な決断を、取り戻す。

 

そして……

主人公の未来を一時的に奪っていた(「これはあなたのため」と言い張り、「課題の介入」をしていた※詳細は別で考察予定トリエルは、主人公の「自立」を心から望むようになっている

 

これらの「タマシイ」は、おそらくアズリエルの体内でアズリエルに「共同体感覚」を伝えたものだと思われる。

 

③アズリエルの「孤独」からの脱却

アズリエルとの戦闘中、彼は「孤独」を感じさせる言動を何度もする。

誰の記憶にも残らない=孤独である。主人公に「孤独」を味わせたい?

これらのセリフを見る限り、彼は主人公と「孤独」を共有したいのであり、彼は「孤独」という「不安」に押しつぶされそうなのである。それは、記事の冒頭で書いたフラウィのセリフからも見て取れるとおりである。

 

彼はこれまで「はな」として生きてきた。ゲーム内で言及されるとおり、「はな」には「タマシイ」がない。彼はそれを「だから何も感じることができない」と表現しているが、彼はすなわち「モンスター」ではないのだ。「モンスター」でなければ、「ニンゲン」ですらない

 

詳しくはこの先行う予定のGルート考察で述べたいと思うが、Gルートのヒューマン(キャラ)は、他モンスターたちから「ニンゲンですらない」という扱いを受ける。だからこそ、フラウィはそのじんぶつに共感を寄せるのだ。「ばけもの」として孤独を共有できる唯一の存在だからである。

 

ちじょうへ行ったときのエピソードから「他者は敵」「このせかいはころすかころされるか」というライフスタイルを選択してしまった彼は、「タマシイのないはな」を脱却しても依然、「孤独」から抜け出すことができなかった

 

しかしアズリエルとなった彼には今「タマシイ」がある。「タマシイ」があれば、他者と感情を共有し、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じる」ことができる。すなわち、自身の手で共同体感覚を掘り起こすことができるのである。

 

ここまで、主人公はその手助けをした。「ゆめ」と「きぼう」を抱き続けその「勇気」をアズリエルに、アズリエルの中のロストソウルたちに伝染させていった。そして「勇気づけ」られたアズリエルは、その手で「共同体感覚」をつかむことができるのである。

それこそが「共同体感覚」ではないだろうか。

 

 

フリスクとしての自立

Pルートを迎えると、主人公は「わたし」ではなく「フリスク」であったことがわかる。

すなわち、この主人公は「わたし」から脱却したのである。

自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。(中略)だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocial interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

「わたし」からの脱却、それはすなわち「究極の自己中心性からの脱却」、つまり「自立」である

 

自分では歩くこともままならず(プレイヤーのケツイを注入されなければ動くこともできなかった)、ニンゲンなのにも関わらずHPが切れたらすぐにタマシイが壊れていたこの主人公は……

いつのまにかプレイヤーの意志をこえてタマシイを持続させる力を持ち……

そして「フリスク」の名前を持ち、プレイヤーのあずかり知らぬ世界へ自ら歩を進めていく

こうして、アンダーテールのPルートの物語は終焉を迎えるのである。

 

さて、もしこの主人公が「勇気」を持ち、ちじょうへと繰り出していったのなら、このニンゲン(フリスクと、そしてそのともだちであるモンスターのみんなの「勇気」は、多くのニンゲンの心を動かすかもしれない

 

筆者が大好きなアドラーの言葉に、以下のようなものがある。

「あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」

 

ニンゲンの世界にはもちろん、協力的ではない人もたくさんいるだろう。

しかし、フリスク勇気が、そしてフリスクのともだちのモンスターのみんなの勇気が周りのみんなに伝わっていく限り……

「モンスター」と「ニンゲン」の未来は明るい。筆者はそう考えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

……もしも、我々が「ほんとうのリセット」を行い、Gルートに歩を進めない限りは。

 

 

 

 

 

番外編:バガパンの「貢献感」?

ここまで、Pルートはフリスクが自立するための物語であり、Pルートでモンスターとニンゲンが共存するためには自他ともに「共同体感覚」が必要だということを述べてきた。

さて、「共同体感覚」には「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」が欠かせないということはこれまでの話に何度も見てきた。人間の幸せとは「ここにいていいんだ」と実感が持てることであり、そのためには「誰かの役に立てている」と「感じる」、すなわち「貢献感」を持つことが重要なのだというのがアドラー心理学的な考え方だ。

 

次に、いくつか『嫌われる勇気』からの言葉を引用する。

人は「私は共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。

共同体、つまり他者に働きかけ「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。いままで議論してきた「共同体感覚」や「勇気づけ」の話も、すべてはここにつながります。

すべての人間は、幸福になることができます。しかし、これは「すべての人間は幸福である」ではないことは、理解しておかねばなりません。行為のレベルであれ、あるいは存在のレベルであれ、自分は誰かの役に立っていると「感じる」こと、つまり貢献感が必要なのです。

(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

また、Twitterからの以下の引用も参照されたい。

 

さて、本考察では「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」からもっとも遠いキャラクターとしてアルフィーを挙げたが、実はそこからほど遠いじんぶつがもうひとキャラクター存在する

 

バーガーパンツである。

※2枚目のこの画像はPルートでのセリフではあるが……これが「これまでの」彼の考え方の根本なのだろう。彼は自分がキズつかないために「人生の嘘」をつき続けていたのである。

キャッティたちとのデートを取り次いでみると分かるが、彼は「なにもかも彼女たちのせいにするのをやめろって?」というようなセリフを口にする。

彼の生き方は「責任転嫁」の生き方であり、典型的な「劣等コンプレックス」を抱えた生き方である。(※「劣等コンプレックス」については【第二回】参照)

 

そのバーガーパンツが、Pルート後にどんな発言をしているか注目されたい。

「貢献」とは、実際にそうであるかではなく、本人がそうじていればよいものである。

この発言はまさに彼が「貢献感」を抱いていることの証明ではないだろうか。

 

彼はアズリエルの中でモンスターたちと思いをともにすることで「共同体感覚」を掘り起こすことができたことにより、「貢献感」を持てるようになったのではないだろうか? というのが、本記者の見解である。

 

そんな彼が、Pルートのメタトンバンドで大成できるかどうかは彼次第であるが、もしもこの感覚により、彼自身の「自己中心性」と「劣等コンプレックス」から脱却できるのであれば……彼はきっと、彼らしいじんせいを歩むことができるだろう。