UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第三回】

この記事(あるいは記事群)は、人気RPGゲーム『UNDERTALE』を「アドラー心理学」から読み解こうという試みを行っています。

 

【!】当然ながら、『UNDERTALE』の多大なるネタバレを含みますので、未プレイ、レイ中の方はご注意ください。

【!】記事の著者は心理学専攻でも何でもなく、一般の人間です。アドラー心理学についてはベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』など、一般流布している書物等で触れている程度の知識しかありません。その点をご了承ください。

 

 

〇第三回 キャラとは何なのか? フリスクとは何なのか? 

 

UNDERTALEにおけるプレイヤー

『UNDERTALE』を"True Pacifist Route(TPルート、通称Pルート)"クリア済の人であれば、主人公=プレイヤーではないということはすでに見てのとおりだと思う。

Pルートの果てにたどり着いた主人公にはフリスクという名前があたえられていて、その名前はプレイヤーが入力した「おちたニンゲン」の名前にはなりえないはずだ。(ゲームシステム上、「フリスク」と名付けてPルートに行くことはかなわない。)

 

それでは、プレイヤーとは一体何なのだろうか? プレイヤーができることといえば、主人公を動かし、操作することだ。プレイヤーのこうどうしだいで、主人公が導かれる世界、主人公が関わっていくモンスターたちの世界は姿を変えていく。

 

ゲームにおいて、プレイヤーが「プレイヤーを感じる」行動のひとつに、「セーブすること」がある。このゲームでは、セーブポイント」=「ケツイをいだくポイント」になっている。

 

つまり、プレイヤーは主人公を「ケツイ」に導く人物ともいえる。

 

(▼もちろん、セーブなしで進めることも可能ではあるが……!)

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さて、アドラー心理学では、人は常に「変わらない」という決心(=決意)をしているのだと考える。人は、今まで自分が培ってきた「ライフスタイル」を変更する際、大きな勇気を試される。

 

もしも「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。(中略)一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。(中略)つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。(引用:岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え』)

 

しかし、もしその「ライフスタイル」を変えることを望むのならば、「いま、この瞬間」に、「いまのライフスタイルをやめる」という決心(=決意)をしなければならない、と説く。

 

プレイヤーは、ケツイ(決心)への導き手である。主人公を、「他者は敵」という「ライフスタイル」であり続けるケツイへ導くのか、それとも、「他者は味方」という「ライフスタイル」に変えるケツイへと導くのか……。

 

それはプレイヤー次第なのである。

 

 

 

キャラとは何(誰)なのか?

キャラ(Chara)とはすなわち、我々自身がRPGの主人公に押し付ける人物像である。もっと正確にいえば、我々自身の、旧来のRPGにおける「モンスターは敵」という認知をしている思考そのものである。

というのは、キャラというのはゲームシステム上にある名前であって、"Genocide Route(通称Gルート)"を歩んだ先で出会うその人物の名前は「おちてきたニンゲンとしてプレイヤーが入力したなまえ(=RPGの主人公の名前)」だからである。

※筆者Gルートプレイ時の画像。筆者のHNは「ゆず」である

この名前は、鏡を見たときにも同じように表示される。(Nルートでは「じぶんだ」としか表示されない。Pルートはそのエンディング時にはじめて「やっぱりじぶんだよ、フリスク」とその名前が表示される。)

 

名義上ここでは「キャラ」と置いておくが、この考察の中では、あくまでこの人物は「モンスターは敵という認知のもとRPGをプレイする我々自身の反映」というイメージを念頭に置いていただきたい。

「じぶん」と「プレイヤー」を分けている「キャラ」。
プレイヤーがこのゲームの中で世界の見方を変えれば「キャラ」は生まれなかった。

さて、この「キャラ」に与えられた役付け(キャラクター)は、おそらくだが、「この世のすべてを憎むもの」に近い位置づけであると筆者は感じている。(「近い位置づけ」といったのは、「その程度の言葉では表せないくらい、キャラの憎悪は深い」と筆者が感じているからであるが……。)

「キャラ」は、本編開始前にバターカップで自殺を試み、タマシイとしてアズリエルの体内にあったとき、自分の村の人間を全力で攻撃することを提案している。そしてまた、Gルートの先で、「こんな世界は今すぐ消し去り 次へ進もう」という言葉を口にする。

ここからわかることは、この人物(キャラ)にとっては「世界は自分の敵である」ということである。

 

もし、世界が「自分の味方」であれば、そこに対して不平、不満、絶望を覚えたり、世界に対して攻撃欲求を持つ必要はないだろう。

人間にとっての悦びが社会の中で「ここにいていいんだ」と思える対人関係の悦びである(アドラー心理学)とするならば、世界に対して攻撃的である必要はないはずである。

世界に対してなぜ攻撃的にならなければならないのか? それは、「世界が敵」だからである。

 

そして、前述のとおり、キャラとは「モンスター(他者)は敵と認知している我々自身の思考」ないしは、「我々にとってのRPGの主人公」なのである。

 

すなわち、キャラとは「世界は敵」「他者は敵」という認知をもった、我々自身(の旧来の思考)を示しているのである。

 

「他者を敵」とみなしている人物が、対象に対して攻撃的である場合、その人物は「問題行動」に出ていると考えることができるだろう。先の記事(UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】 - UNDERTALE考察)で見た「問題行動の5段階」にあてはめるならば、さしずめ「復讐」の段階ということになる。

 

 

 

フリスクとは何(誰)なのか?

UNDERTALEでTPルートにたどり着いた際、おそらくは多くの人がフリスクFrisk)って誰!?」と思ったのではないだろうか。

筆者ははじめてその名前を目にしたとき、本当に驚いた。そして、口の中に爽快感が広がるようであった。「自分=プレイヤー自身」でないことは「しんじつのラボ」で分かっていたものの、「あなたは一体誰!?」と思わずにはいられなかった。

 

フリスクの考察の中に、興味深いものがある。

フリスク「キャラの死体である」という説である。

note.com

game.hatenadiary.com

(この説の内容についてはこのブログでは省略するため、各種リンク先を参照されたし。)

 

すなわち、プレイヤーが操作するニンゲンとは、キャラの成れの果てだ、というのである。

 

さて、キャラが「他者は敵」「世界は敵」とみなす「復讐」段階の人物だとするならば、その死体としてよみがえった人物は、「復讐」よりもさらに最下層の問題行動の層を呈していると考えられないだろうか?

すなわち「無能の証明」の段階である。

 

自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。(引用:岸見一郎/古賀史健著『幸せになる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』)

 

キャラはアズリエルと共謀して、世界に「復讐」しようとした。しかし、そのアズリエルに裏切られた(アズリエルは、キャラが期待した行動をしなかった。そしてそれを裏切られたように感じたかもしれない。もしそうだとすれば、キャラは「課題の分離」ができていなかったと言える)。唯一「信用」していた相手に「裏切られた」と感じたとしたら、キャラが「絶望」を味わってもおかしくない。そうした果てに、もしもその人物がたどりつくとしたら、その先は「無能の証明」なのである。

 

さて、主人公=キャラの死体ではなかったとしても、このゲームの主人公にはキャラとの類似性があるはずである。すなわち、「イビト山に入り、そこから転落して地底に落ちてきた」という類似性だ。

年端もいかない子どもが、ひとりで山に入り、転落する――そういう境遇である以上、そのじんぶつの境遇はキャラに近いものを持つ可能性を拒否しきれない

「人に見捨てられ、世界に絶望したニンゲン」――このニンゲンを、この考察では「無能の証明」をしている人間と仮定したい。

 

「無能の証明」といえそうな点は、この主人公は自らの力では動くこともままならないという部分である。このじんぶつは、プレイヤーが動かしてやらないと、何もできないのである。目すら塞いでいるように見える……のは(Pルートの先でもそのままなので)考えすぎかもしれないが、まさにプレイヤーの力がないかぎりは「無能」なニンゲンなのである。

 

我々プレイヤーは、この「無能の証明」の主人公の導き手となる。その際、プレイヤーが「いせき」の中で、世界への認知を「他者(モンスター)は敵」という認知から「他者(モンスター)は味方」(このゲームで出てくる他者はすべてモンスターである)という認知に変えることができたのならば、このニンゲンは「キャラ」という「旧態依然なRPGの主人公(である我々自身の思考)」から抜け出すことができる

すなわち、フリスク」という別個の存在として「自立」できるのである。

それこそが「フリスクである、と位置付けたいと考える。

 

 

 

UNDERTALEは「自立」の物語

アドラー心理学の観点の基本は原因論ではなく、「目的論」である。この考え方に則れば、人は変わりたい自分に変わることができるということは、【第二回】(UNDERTALEをアドラー心理学で読む【第二回】 - UNDERTALE考察 にて述べた。

もし、主人公が最初は旧態依然なRPGの主人公=他者は敵という認知をしている人物だったとしても、「いせき」の中で「他者は味方である」という認知に立つことができたなら……

このじんぶつは「変わる」ことができる。

 

プレイヤーが主人公をTPルートに導くことは、主人公が「今、この瞬間に変わる」ことであり、そのことによって「他者は味方であり、他者のために動こうと思え、そんな自分を受容することができる」=「自立」へ向かわせること と同じなのである。

 

自分では何ひとつ行動も起こせなかったニンゲンを「フリスク」として、「私」のケツイなしに動けるように支援していく……

我々プレイヤー自身も、ニンゲンを通してそれを学びなおし、「自立」していく……

 

それが「UNDERTALE」の一側面なのではないか、と筆者は考える。

 

 

 

次回は、TPルートをたどると、どのように「変わる」ことができるのか、順を追ってみていきたいと思う。